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ブログ四日目

ブログ四日目、何とか文章を書く習慣が身についてきそうな予感、今日も昨日に引き続き行ってみよう。

今日は、母のお話

母は、私が物心ついた時には、家に居て専業主婦、というか家で洋裁の内職をしていた。知り合いが雑誌等のデザインを持ってきて、それに型紙を作って、持ってきた生地を切って、立体に仕上げる、いわゆるオートクチュールか。家にいると仕事の邪魔になるのか、近くの保育園に預けられていた。母が恋しくてよく泣いていたような気がする。その頃の家は、平家の借家でオンボロ長屋と言ったものだった。記憶はあまりない。保育園の遠足で競馬場に行った記憶が、かすかにある程度だ。

母は家計をよく助けていたようだ。車の免許をとり、弁当屋の配達や夜間の立ち食い蕎麦屋でも働いていた。私の大学時代の仕送りは母のお陰だと思っている。嫁を貰うならしっかりモノで生活力旺盛な人が良いと思っていた。

父と母は8歳離れていたと思う。多分見合い結婚だと思う。私の歳から逆算して父が33歳、母が25歳のときの子で、長男なので、30歳過ぎての結婚となる。当時としては父は晩婚だったのだろう。20代半ばの若い嫁さんを貰っているのでその点では恵まれていると思う。(私は若い嫁さんを貰えなかったので羨ましい)

母はすごいと思う、酒乱の父とよく一緒にいられたモノだ。一度、家から出で叔父さん叔母さんの家に逃げた事があった。親戚の中立ちで帰ってきたが、離婚でもしていたら私の人生は真っ暗だったと思う。

母は9人兄弟の末っ子と言っていた。男兄弟は三人知っているがみんな亡くなっている。すぐ上の叔父は六男という名前だったので、男は6人いたのかも知れない。その上は三男、一番上は名前を知らない。叔母さんは二人知っているので、女兄弟は三人だろう。これで勘定が合う。母がたの親戚とは子供の頃から行き来があった。よく一人で遊びに行っていた。もう故郷を離れてしばらく経つので、みんな相当歳をとっていると思う。

父も母も末っ子同士の結婚で、父は晩婚、従兄弟達の中では私と弟が一番下の方になる。年下の従姉妹が一人いた。父がたの従兄弟は、昔、父に連れられて行った事があるが、あまり記憶もなく、付き合いも深くない。結婚式に福岡の従兄弟に来てもらったら、受付をしていた妻の弟を見て先生と行ってびっくりしていた。義弟は、従兄弟の息子の高校の担任だったらしい。奇妙な縁もあるモノだ。

随分と話が脱線したが、母は今年で83歳になる。新型コロナの関係でしばらく帰省していない。もうあと何年も生きないと思うが、親孝行はしておかないとと思う。ワクチンも2回打ったので、年末には帰ってみようかと思う。

父が亡くなって、父がたの親戚と付き合いがなくなり、母がなくなれば、母がたの親戚とも関係がなくなると思う。元々、地縁が薄く、地元の知り合いも少ないので、故郷に帰る意味もなく、妻も今の家がいいと言っているので、故郷との関係は薄くなるばかりだ。もう故郷に住むこともないだろう。

だいぶ書き進めてきたので、疲れてきた。ここらで今日は終了します。

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ブログ三日目

今朝もアキレス腱が痛いのでジョギングはお休み

さあ、自分の人生の振り返りだ!

私は、昭和38年2月19日生まれ(今年58歳)

まずは父親のお話

父の職業は、国鉄職員、昭和4年生まれ、戦前に高等小学校を卒業、国鉄の職員養成学校に入学(入社)以降定年まで勤め上げた。勤続40年表彰の額が実家に飾ってある。お酒が好きで、毎日飲んでいた。アルコール中毒おまけに酒乱ときている。いわゆる酒をのむと人が変わる。飲まないといい人なんだけどと言われるタイプ。なんでそうなったかは、わからない。戦中、戦後何があったのかは、聞いたことがないが、あまり良いことはなかったのだろう。海軍の志願兵として従軍しているが、実戦経験は無いようだ。駆逐艦の通信士をしていたようだ。無事終戦を迎えられたため、今自分がいる。祖父は佐賀出身で小倉に出てきて国鉄に勤務していたらしい、それで父も国鉄に就職したらしい。父は昔の日本でそうだったように兄弟は多かったらしいが、年も離れていて、従兄弟たちは随分と年上だ。父は一緒に住んでいたようでにいちゃんと呼ばれていた。長兄は結婚後、子供ができていたが亡くなって、その奥さんは弟と再婚(当時は珍しくなかったようだ)したらしい。だからいとこ達の父は違うが母は同じで当然一緒に暮らしていた。父は末っ子だったが、すぐ上の姉、叔母さんしか生き残っていなかったのでその上の叔父さんは知らない。叔母さんは脳性小児麻痺を患い足が悪かった。しょっ中入院していた。よく見舞いに行ってはお小遣いをもらっていた。父の兄弟は二人だけのこり、叔母が死んで火葬してお骨を拾うときに、父が泣いていたのは印象的だった。父が死んでからは、父方の親戚とは付き合いがなくなり会うこともない。福岡に従兄弟が一人いて年賀状だけ交換している。また父の話に戻る。父は国鉄小倉工場の職工で肉体労働者らしく勤務終了後は毎日、会社帰りの酒屋で角打ち(酒屋の店頭飲み)していた。その酔っ払った顔を見るのが嫌だった。それでも借金して自分の家を建てたし、子供二人を一人前に育てたのは大したものだ。母の力が大きいと思うが。父はやはりこの大量飲酒が原因でか、C型肝炎、肝臓がん、肝硬変による肝不全で亡くなった。72歳だったと思う。若い頃、胃潰瘍で胃を切っているがそのときの輸血でC型肝炎になったのかもしれない。今考えても父とはあまり話をした記憶がない。あまり好きではなかったからかもしれない。なんとか死に目には会えたが、この時も通夜・葬儀でも不思議と悲しくなかった。自分は冷たい人間なのかと思う。一つ父が話していた話で覚えていることがある。「人は歳をとってくるともう人生、のこり少ないと感じる」今まさに自分の人生も折り返し点を過ぎ、週末に向かい残りの人生の年数を数えることになった。自分もその時の父の心境になってきたという事。

だいぶ疲れてきたので、父のことはこれ位にしてお風呂に入ってきます。

 

 

 

 

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今朝はジョギングはお休みです

昨日からアキレス腱が痛み出し、今朝はジョギングはお休みです。

少し時間ができたので、ブログを書いています。

今後の内容について考えていると自分の人生を振り返ってみたいと思います。それでは早速始めましょう。

その前に朝風呂に入ってきます。

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初めてのブログ

今日初めてブログを開設しました。

なかなかに説明を理解するのに時間がかかり、かれこれ4時間くらいPCいじっています。

これからは、毎日徒然に思うことを書いていきたいと思います。