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ブログ六日目今日もやるぞ

今朝は雨、足も痛いし、今週は休息の週

昨日は、同期入社のU君が会社を訪ねてきた。
先月、インドから帰国、インドでは新型コロナに感染し大変だったようだ。
また、帰国後の仕事も大役を仰せつかったようで、あと1年半大きな仕事に没頭するようだ。

さて、昨日の続き、

弟は、弁護士に借金の任意整理をお願いし、あとは粛々と働いて借金を返すだけなのだが、そうはいかなかったようだ。母の悩みはつきなかったようだ。本人も母も私にはそんなことは言わない。何か言われるのが嫌なのだろう。興味本位で聞くのも悪いので、自分からは知らないふりをしている。妻が一度、里帰りして訪れた時に、東京から戻って家の2階に住み着いている事がわかった、私には言わないでと母から言われたと言う事だった。その内、故郷で就職先を見つけて現在に至る。彼も晩婚ながら結婚し子供も一人できて(遅くできた子で一人っこ、溺愛している)普通の生活をしていると思いきや、暫くして別居した。弟が嫁さんに手をあげたらしい。別居してから別れたかどうかはわからないが、子供は可愛いらしく月一回は嫁さんが連れてくるそうだ。甥っ子にはあった事がないが、家には写真が溢れている。娘が遊びに行った時に一度会ったようだ。
まあ、人の家庭に口出しするのは性に合わないのでやめておく。自分の家庭のことにも口出しして貰いたくないから。
弟は今は真面目に勤め人になっているようだし、毎日、夜は実家で夕飯を食べ、その残りを弁当箱に詰めて、翌日の昼食にしていた。なんと慎ましい生活か。自分も見習わなくてはいけないのか。まあ無理だろう。家は広いし、母と一緒に暮らしてもらえれば安心なのだが、どうして家賃を払ってアパートを借りているんかわからない。妻子の関係からなのだろう。私は母の遺産は放棄すると言っているので、母が亡くなったら実家には弟が住めばいい。その時から、実家に帰ることもなくなり、故郷との関係も無くなってしまうのだろう。18歳までしか故郷には住んでいなかったので、故郷にあまり親しみは感じない。
我が家も私と同じで自分が死んだら、父がたの親戚とは付き合いがなくなるのだろう。それも仕方がない。今でもほとんど付き合いがない。九州と東北の距離はなんとも遠い。私の家族にとって故郷は岩手県盛岡市、それでいい。
弟の話に戻るが、はたから見ると決して成功しているとは見えないが、子供もいるし、老後はどうするかはわからないが何とかすると思う、それも人生。人のことに口出しはやめておこう。弟の家族と顔を合わせるのは、母の葬式の時かもしれない。それでいいと思う。

そろそろ弟の話は、これくらいにして朝風呂に入ってきます。

 

 

 

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ブログ五日目まだまだ続けるぞ

今朝もアキレス腱痛でジョギングはお休み

一週間様子を見て病院へ行こう。

昨日は、仕事の帰りにサウナに寄って、軽くビールと日本酒、いつもよりぐっすり眠れたかも。平日サウナの習慣も取り入れてみよう。

さあ今日は、弟の話を書こう。
弟は、私の三学年下、昭和40年生まれ。小さい頃は可愛かったので、みんなに可愛がられていて羨ましかった。私の早生れに対して10月生まれなので、知能の発達もそれ相応によく賢そうだったのも羨ましかった。結構恵まれて育ったのがその後の人生に影響したのかもしれない。

小さい頃は、順調に育っており、地元の小学校、中学校を出て高校は工業高専を出た。ラグビー部だったので、モテていたようだ。就職口も悪くなかったようだが、大手にはいかず、友達と一緒に大分の名も無い中小企業に就職した。案の定、経営が思わしくなく数年で退職、東京に出た。その頃は、バブル期で若い男一人だったら、暮らすのに苦労はなく、返ってバイトを掛け持ちして羽振りはよかったようだ。月収が手取りで50万あったこともあったようだ。それだけあれば生活も豪勢になる。新橋の老舗焼肉屋徳寿のホール係をしていたようだが、その時、運悪く狂牛病が流行り出した。焼肉屋は敬遠され経営は苦しく、給料の遅配があったようだ。生活レベルも上がっており、資金繰りも厳しくなり、カードローンからサラ金、果ては闇金に手を出し、首が回らなくなった。母に泣きつき、借金を払って貰うことになったが、母から私に金を預けるので払って欲しいとのことだった。当時、大阪から新幹線で東京に行って、弟と闇金周りをした。最初は錦糸町の業者で事務所を構えていた。店長らしき人が、お兄さんがわざわざはらいにきてくれたので、二度と借金に手を出すなとマトモなことを行って、少し利子分を負けてくれたのはびっくりした。一緒に完済済書をくれた。次は渋谷だったと思う。マンションの一室が事務所になっていた。中には二人いたが、一人はいかにもヤクザらしい人間だった。支払いをして完済済書を出してくれと頼んだら、拒否された。証拠らしきものが残るのが嫌だったのか、話をしようとすると弟が揉めたくないと止めるので、そのまま帰った。次は渋谷パルコ前で待ち合わせ(スカウトらしき人間がひっきりなしに若い女性に声をかけていた)、無店舗の闇金で電話をすると受け子みたいな人間がお金を持ってくるらしい。百貨店の階段でお金をわたし、受け子はメモ帳の切れ端に確かに受領しましたと記入し、渡してくれた。最後は、サラ金等の整理のために、弁護士事務所へ、今でこそ、過払金請求のコマーシャルがTVで一般的に流れているが、その時はまだあまり知られていなかった。普通のサラ金は弁護士が入ると大人しくなるらしいが、闇金はそうも行かないらしく、会社や親族にも迷惑がかかるので何とか返済したほうが良いということだったので、今回の返済となった。サラ金への残債は2百万円位あるようだが法的整理、最終免責ではなく、任意整理したいとのことだった。弟ながら借りたものはちゃんと返したいといい、大したモノだ、と思ったが、後にそうでもないような事がわかった。一通り、関係先を回ったあと、夕食を食べようということになり、特寿の関係の居酒屋に行くことになった。借金背負った人間に奢らせるわけにはいかないと思ったが、弟がどうしてもご馳走させてくれといって譲らないので、お言葉に甘えることにした。あっという間に最終の新幹線に間に合わなくなったので、弟の家に泊まることにした。家は三軒茶屋にあった、結構便利なところにあり、友達が借りていたところをそのまま借りているようだが、借主はそのままのようでその後、追い出されることとなる。なんと小型犬を飼っていたのは驚きだった。当然無許可である。翌日は朝始発で帰って、そのまま会社に出社した。初めて闇金と言うものを知った、良い経験になったが自分はそんな目に会いたくはないと思った。弟の借金はこれからしばらく続くことになり、それが母の悩みの種となったようだが、その事は私には知らされなかった。

だいぶ長くなったので、前編はこの辺で、明日後編を書きます。

では、今朝もお風呂に行ってきます。

 

 

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ブログ四日目

ブログ四日目、何とか文章を書く習慣が身についてきそうな予感、今日も昨日に引き続き行ってみよう。

今日は、母のお話

母は、私が物心ついた時には、家に居て専業主婦、というか家で洋裁の内職をしていた。知り合いが雑誌等のデザインを持ってきて、それに型紙を作って、持ってきた生地を切って、立体に仕上げる、いわゆるオートクチュールか。家にいると仕事の邪魔になるのか、近くの保育園に預けられていた。母が恋しくてよく泣いていたような気がする。その頃の家は、平家の借家でオンボロ長屋と言ったものだった。記憶はあまりない。保育園の遠足で競馬場に行った記憶が、かすかにある程度だ。

母は家計をよく助けていたようだ。車の免許をとり、弁当屋の配達や夜間の立ち食い蕎麦屋でも働いていた。私の大学時代の仕送りは母のお陰だと思っている。嫁を貰うならしっかりモノで生活力旺盛な人が良いと思っていた。

父と母は8歳離れていたと思う。多分見合い結婚だと思う。私の歳から逆算して父が33歳、母が25歳のときの子で、長男なので、30歳過ぎての結婚となる。当時としては父は晩婚だったのだろう。20代半ばの若い嫁さんを貰っているのでその点では恵まれていると思う。(私は若い嫁さんを貰えなかったので羨ましい)

母はすごいと思う、酒乱の父とよく一緒にいられたモノだ。一度、家から出で叔父さん叔母さんの家に逃げた事があった。親戚の中立ちで帰ってきたが、離婚でもしていたら私の人生は真っ暗だったと思う。

母は9人兄弟の末っ子と言っていた。男兄弟は三人知っているがみんな亡くなっている。すぐ上の叔父は六男という名前だったので、男は6人いたのかも知れない。その上は三男、一番上は名前を知らない。叔母さんは二人知っているので、女兄弟は三人だろう。これで勘定が合う。母がたの親戚とは子供の頃から行き来があった。よく一人で遊びに行っていた。もう故郷を離れてしばらく経つので、みんな相当歳をとっていると思う。

父も母も末っ子同士の結婚で、父は晩婚、従兄弟達の中では私と弟が一番下の方になる。年下の従姉妹が一人いた。父がたの従兄弟は、昔、父に連れられて行った事があるが、あまり記憶もなく、付き合いも深くない。結婚式に福岡の従兄弟に来てもらったら、受付をしていた妻の弟を見て先生と行ってびっくりしていた。義弟は、従兄弟の息子の高校の担任だったらしい。奇妙な縁もあるモノだ。

随分と話が脱線したが、母は今年で83歳になる。新型コロナの関係でしばらく帰省していない。もうあと何年も生きないと思うが、親孝行はしておかないとと思う。ワクチンも2回打ったので、年末には帰ってみようかと思う。

父が亡くなって、父がたの親戚と付き合いがなくなり、母がなくなれば、母がたの親戚とも関係がなくなると思う。元々、地縁が薄く、地元の知り合いも少ないので、故郷に帰る意味もなく、妻も今の家がいいと言っているので、故郷との関係は薄くなるばかりだ。もう故郷に住むこともないだろう。

だいぶ書き進めてきたので、疲れてきた。ここらで今日は終了します。

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ブログ三日目

今朝もアキレス腱が痛いのでジョギングはお休み

さあ、自分の人生の振り返りだ!

私は、昭和38年2月19日生まれ(今年58歳)

まずは父親のお話

父の職業は、国鉄職員、昭和4年生まれ、戦前に高等小学校を卒業、国鉄の職員養成学校に入学(入社)以降定年まで勤め上げた。勤続40年表彰の額が実家に飾ってある。お酒が好きで、毎日飲んでいた。アルコール中毒おまけに酒乱ときている。いわゆる酒をのむと人が変わる。飲まないといい人なんだけどと言われるタイプ。なんでそうなったかは、わからない。戦中、戦後何があったのかは、聞いたことがないが、あまり良いことはなかったのだろう。海軍の志願兵として従軍しているが、実戦経験は無いようだ。駆逐艦の通信士をしていたようだ。無事終戦を迎えられたため、今自分がいる。祖父は佐賀出身で小倉に出てきて国鉄に勤務していたらしい、それで父も国鉄に就職したらしい。父は昔の日本でそうだったように兄弟は多かったらしいが、年も離れていて、従兄弟たちは随分と年上だ。父は一緒に住んでいたようでにいちゃんと呼ばれていた。長兄は結婚後、子供ができていたが亡くなって、その奥さんは弟と再婚(当時は珍しくなかったようだ)したらしい。だからいとこ達の父は違うが母は同じで当然一緒に暮らしていた。父は末っ子だったが、すぐ上の姉、叔母さんしか生き残っていなかったのでその上の叔父さんは知らない。叔母さんは脳性小児麻痺を患い足が悪かった。しょっ中入院していた。よく見舞いに行ってはお小遣いをもらっていた。父の兄弟は二人だけのこり、叔母が死んで火葬してお骨を拾うときに、父が泣いていたのは印象的だった。父が死んでからは、父方の親戚とは付き合いがなくなり会うこともない。福岡に従兄弟が一人いて年賀状だけ交換している。また父の話に戻る。父は国鉄小倉工場の職工で肉体労働者らしく勤務終了後は毎日、会社帰りの酒屋で角打ち(酒屋の店頭飲み)していた。その酔っ払った顔を見るのが嫌だった。それでも借金して自分の家を建てたし、子供二人を一人前に育てたのは大したものだ。母の力が大きいと思うが。父はやはりこの大量飲酒が原因でか、C型肝炎、肝臓がん、肝硬変による肝不全で亡くなった。72歳だったと思う。若い頃、胃潰瘍で胃を切っているがそのときの輸血でC型肝炎になったのかもしれない。今考えても父とはあまり話をした記憶がない。あまり好きではなかったからかもしれない。なんとか死に目には会えたが、この時も通夜・葬儀でも不思議と悲しくなかった。自分は冷たい人間なのかと思う。一つ父が話していた話で覚えていることがある。「人は歳をとってくるともう人生、のこり少ないと感じる」今まさに自分の人生も折り返し点を過ぎ、週末に向かい残りの人生の年数を数えることになった。自分もその時の父の心境になってきたという事。

だいぶ疲れてきたので、父のことはこれ位にしてお風呂に入ってきます。

 

 

 

 

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今朝はジョギングはお休みです

昨日からアキレス腱が痛み出し、今朝はジョギングはお休みです。

少し時間ができたので、ブログを書いています。

今後の内容について考えていると自分の人生を振り返ってみたいと思います。それでは早速始めましょう。

その前に朝風呂に入ってきます。

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初めてのブログ

今日初めてブログを開設しました。

なかなかに説明を理解するのに時間がかかり、かれこれ4時間くらいPCいじっています。

これからは、毎日徒然に思うことを書いていきたいと思います。