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ブログ九日目

昨日からウオーキングを再開しました。

昨日は、朝から洗濯、風呂掃除、昼前から散歩に出かけ、多摩川沿いをウオーキング後、サウナ、風呂上がりの昼飲み、お昼寝という怠惰な生活。また来週の日曜日は、supの  スクールに申し込んだので少しは運動できると思います。

今朝は、駅まで、短めのウオーキング。

今日は、一日在宅勤務、何となくじっとしているので運動不足となりがちです。

では、今日も私の人生振り返ってみましょう。

熊本大学入学前に住む所を決めるために、同級生の二人と下宿先を探しに熊本に行きました。

大学周辺には、多くの下宿、間借り、アパートがありましたが、大学の裏門の先の龍山荘というアパート(四畳半の間借り、風呂なしトイレ共同)に決めました。

入学式後、教養部のクラス分けがあり、同級生の友人ができました。今でも年賀状のやり取りがある人もいますが、ほどんどこの30年間会った事がありません。

龍山荘には、簡易のコインシャワーがありましたが、基本は銭湯でした。ラーメン屋のバイトの帰りにお風呂に入りたかったので、二年目には次の下宿を探しました。少し離れたところに、風呂がついた部屋を見つけましたが、一部屋を二分した部屋で、風呂付きの部屋は狭かったので、広い方を借りました。ここも1年間で出て、川の向こう渡鹿町のアパート2kバストイレ付きを先輩から紹介してもらい二年間済みました。ここは大学からは離れていますが、静かで入り浸っていたバイクやにも近く便利なところにありました。

大学生活は、まず必要単位を数大くとることを第一に取り組みました。1年時には法学部の専門課程は2限のみでしたが、そのうちの選択科目の基礎法学が不可でしたが、何と必修科目の民法総則が優上でした。この作戦で必要最小限の単位取得で卒業しました。

また、友達に法曹業界を目指す人がいたので、志法会というサークルに入っており、後に私も別に司法試験を受けることは全く考えていなかったが、仲間が欲しかったので、入ってみた。

部活と言えば、これも中途半端な話だが、ボート部の人にキャンパスで声をかけられなぜか部室について行ってしまった。キツいトレーニングについていけるわけもなくずるずると足が遠のき、いつの間にかやめていた。同じ高校の二人が最後まで続けており、これもまた尊敬に値する。

本当に私はスポーツ、運動ということに縁がなかった。

今、健康に目覚めたのが不思議でならない。

まあ、今日はこれくらいにしておきます。

 

 

 

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ブログ八日目、順調に継続

昨日は、一日、家で過ごした。

朝から掃除、あとは、YouTubeとNetflix三昧。夜に娘が来ると言うので、一緒に裏の鮨正で夕食、娘と一緒に食事ができるのは羨ましがられる。私にとっては可愛い娘だ。千葉でキャデイをしている。休暇で以前バイトしていた阿蘇のホテルに遊びに行ったらしい。今朝、阿蘇から熊本、新幹線で博多、福岡から羽田に着いたらしい。ここで洗濯して、夜行バスで盛岡に帰った。8日にまた来ると言っていた。

それでは、昨日の続き行ってみよう。

小倉高校に何とか補欠入学したものの、最初の実力試験は450人中何と445番、田舎中学の実力はこんなものか。最終的には、事務系120番位にはなったものの、マラソン大会を最後に出発と言った感じで、先が思いやられるスタートだった。

1年生は男子クラス、同じ中学の松山君と、今同じ会社で同期の八田君と同クラスだった。

放課後、松山君と教室にいたら応援団の人達に囲まれ、部室に拉致され、入部することになった。私はついていけず、途中で退部、松山君は最後は応援団旗を挙げていた。大したものだ。尊敬に値する。松山君は大学も同じだが付き合いは、ない。

そう言えば、入学早々、彦山の少年の家で合宿訓練が有った。応援団が指導して全校の応援の訓練みたいなもの、また躾の訓練のようなものだった。内容はあまり良く覚えていない。

高校の授業は、前日に予習をすることを義務付けられて、毎晩遅くまで勉強したことを覚えている。ただ授業について行くのがやっとだった。特に英語は不得意だった。文法が全くの苦手だった。それでも試験ごとに成績は数十番単位で上がって行ったので、気分はよかった。やれば成果が出ることを実感した。

授業は、1時間目の前にもう一時間授業があり、6時間目の後にもう一時間授業が有った。一日に8時間授業が有った。朝、日の出前に家を出てから日が沈んでから帰宅する毎日だった。冬には朝その前に朝稽古(柔道または剣道)があり、汽車がないので、友人のお父さんに送ってもらっていた。一日の殆どを学校で過ごし、家では予習と食事と寝るだけの何とも暗い高校生活を過ごした。

三年間男子クラス、三年は事務系だったので男女クラスを期待していたが、何せ元々女子が少なく、2クラスの男子クラスの一つに入った。

小倉高校は歴史のある学校(昔は小倉中学)で、高校野球で全国制覇を二回やっている。学帽の二本線はその証と先生が言っていた。

今でも地元では名門で地元企業には、先輩後輩が大勢いるようだ。採用活動で地元の大学を訪問し、面談した先生に小倉高校出身と言ったら何期だと聞かれた。その先生も倉校出身らしく名簿で調べてくれた。

倉校には制服が三種類あり、夏・冬服と春・秋に霜降りの学生服がありそれを見ると一発で倉校生とわかる。

高校生活あまり良い記憶はないが、受験勉強はなんとか乗り切り、合格圏内の熊本大学を受験した。

父の友人の息子が熊本大学工学部にいたので合格発表を見てくれるということだったので、待っていたが何も連絡がない。また失敗したかと高校受験の時の思い出が頭をよぎった。仕方なく街に遊びに行くとパチンコ屋で同じ熊大を受験した友人に会い、熊大落ちたらしいと言うと、「お前受かっっているよ」と新聞の合格者名を見せてくれた。驚いたが、助かった気持ちだった。それから学校に報告に行った。まずは一安心、浪人をせずにすんだ。

また、今朝も長くなったのでこの位にして、お風呂に行ってきます。

 

 

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ブログ七日目、1週間続けられました。

今日もアキレス腱痛が続いているのでジョギングはお休み

なんとか明日は、ウオーキング ができるようになればいいなと思っています。その後はサウナと昼飲みです。

それでは、今日の話題は、自分です。

私の幼少期は、もうあまり覚えていないのですが、白銀町の長屋暮らしから父の国鉄の官舎(原町)に幼稚園の頃に引っ越しました。ここで中学1年生まで過ごします。父の職場、市街地にも近く便利なところでした。幼稚園は近くのお寺がやっていた木町幼稚園、一年保育のように記憶しています。

小学校は、清水小学校、低学年では授業について行くのが辛かったと思います。成績はあまり良くなかったと思います。

中学校は、家のすぐ近くの篠崎中学校に入学、その後、父が小倉南区の横代に会社の斡旋で土地を買い家を建てることになりました。ここに今でも母が住んでいます。築44年になりますが、まだまだ住むには不自由はないようです。

篠崎中学の時は、成績もそんなに良くなくて20番くらいだったと思います。そのころは、工業高専に行ってそのまま就職してもいいなと思っており、大学に行くことはあまり考えていませんでした。

中学二年生の時に新設の横代中学(企救中学から分校)に転校しました。ここが何と今までの品の良い地域とはちょっと違い軽くカルチャーショックを受けました。

ただ、周りのレベルが下がると言うことは、相対的に自分の地位が上がり、成績はいきなり三番に上昇し二年間下がることはありませんでした。その代わり、上の二人は、追い抜くことはできませんでした。柄の悪い奴らからいじめられたりもしました。柄になく初めて部活(サッカー部)にも入りました。あまり良い記憶はなかったですが、いろいろなことを経験しました。

そんな感じで勉強はできた(できると勘違いしていた)ので高校は北九州市の名門小倉高校を受験しました。横代中学から受験したのは4名、成績では私の下が一名合格しています。

高校受験でも一つ、因縁があり、自分とその成績は下の男と勇んで合格発表を見に行ったのですが、なんと合格番号が無い。ショックは大きく何とも言えない気持ちで帰りました。母に報告し、学校に報告し、一年浪人して予備校に通おうと考えていました。翌日はゆっくり街で遊ぼうかと思っていると学校から連絡があり、小倉高校から合格したので、来て欲しいと連絡が会ったとのことでした。

小倉高校に訪問し当時の校長先生から、合格おめでとうと直接言われました。まあ考えてみれば、補欠入学ということでしょう。まずは名門高校に滑り込む事ができました。ここから三年間の暗い倉校生活が始まります。

だいぶ長くなったので、今朝はこれくらいにして、お風呂に行ってきます。

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ブログ六日目今日もやるぞ

今朝は雨、足も痛いし、今週は休息の週

昨日は、同期入社のU君が会社を訪ねてきた。
先月、インドから帰国、インドでは新型コロナに感染し大変だったようだ。
また、帰国後の仕事も大役を仰せつかったようで、あと1年半大きな仕事に没頭するようだ。

さて、昨日の続き、

弟は、弁護士に借金の任意整理をお願いし、あとは粛々と働いて借金を返すだけなのだが、そうはいかなかったようだ。母の悩みはつきなかったようだ。本人も母も私にはそんなことは言わない。何か言われるのが嫌なのだろう。興味本位で聞くのも悪いので、自分からは知らないふりをしている。妻が一度、里帰りして訪れた時に、東京から戻って家の2階に住み着いている事がわかった、私には言わないでと母から言われたと言う事だった。その内、故郷で就職先を見つけて現在に至る。彼も晩婚ながら結婚し子供も一人できて(遅くできた子で一人っこ、溺愛している)普通の生活をしていると思いきや、暫くして別居した。弟が嫁さんに手をあげたらしい。別居してから別れたかどうかはわからないが、子供は可愛いらしく月一回は嫁さんが連れてくるそうだ。甥っ子にはあった事がないが、家には写真が溢れている。娘が遊びに行った時に一度会ったようだ。
まあ、人の家庭に口出しするのは性に合わないのでやめておく。自分の家庭のことにも口出しして貰いたくないから。
弟は今は真面目に勤め人になっているようだし、毎日、夜は実家で夕飯を食べ、その残りを弁当箱に詰めて、翌日の昼食にしていた。なんと慎ましい生活か。自分も見習わなくてはいけないのか。まあ無理だろう。家は広いし、母と一緒に暮らしてもらえれば安心なのだが、どうして家賃を払ってアパートを借りているんかわからない。妻子の関係からなのだろう。私は母の遺産は放棄すると言っているので、母が亡くなったら実家には弟が住めばいい。その時から、実家に帰ることもなくなり、故郷との関係も無くなってしまうのだろう。18歳までしか故郷には住んでいなかったので、故郷にあまり親しみは感じない。
我が家も私と同じで自分が死んだら、父がたの親戚とは付き合いがなくなるのだろう。それも仕方がない。今でもほとんど付き合いがない。九州と東北の距離はなんとも遠い。私の家族にとって故郷は岩手県盛岡市、それでいい。
弟の話に戻るが、はたから見ると決して成功しているとは見えないが、子供もいるし、老後はどうするかはわからないが何とかすると思う、それも人生。人のことに口出しはやめておこう。弟の家族と顔を合わせるのは、母の葬式の時かもしれない。それでいいと思う。

そろそろ弟の話は、これくらいにして朝風呂に入ってきます。

 

 

 

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ブログ五日目まだまだ続けるぞ

今朝もアキレス腱痛でジョギングはお休み

一週間様子を見て病院へ行こう。

昨日は、仕事の帰りにサウナに寄って、軽くビールと日本酒、いつもよりぐっすり眠れたかも。平日サウナの習慣も取り入れてみよう。

さあ今日は、弟の話を書こう。
弟は、私の三学年下、昭和40年生まれ。小さい頃は可愛かったので、みんなに可愛がられていて羨ましかった。私の早生れに対して10月生まれなので、知能の発達もそれ相応によく賢そうだったのも羨ましかった。結構恵まれて育ったのがその後の人生に影響したのかもしれない。

小さい頃は、順調に育っており、地元の小学校、中学校を出て高校は工業高専を出た。ラグビー部だったので、モテていたようだ。就職口も悪くなかったようだが、大手にはいかず、友達と一緒に大分の名も無い中小企業に就職した。案の定、経営が思わしくなく数年で退職、東京に出た。その頃は、バブル期で若い男一人だったら、暮らすのに苦労はなく、返ってバイトを掛け持ちして羽振りはよかったようだ。月収が手取りで50万あったこともあったようだ。それだけあれば生活も豪勢になる。新橋の老舗焼肉屋徳寿のホール係をしていたようだが、その時、運悪く狂牛病が流行り出した。焼肉屋は敬遠され経営は苦しく、給料の遅配があったようだ。生活レベルも上がっており、資金繰りも厳しくなり、カードローンからサラ金、果ては闇金に手を出し、首が回らなくなった。母に泣きつき、借金を払って貰うことになったが、母から私に金を預けるので払って欲しいとのことだった。当時、大阪から新幹線で東京に行って、弟と闇金周りをした。最初は錦糸町の業者で事務所を構えていた。店長らしき人が、お兄さんがわざわざはらいにきてくれたので、二度と借金に手を出すなとマトモなことを行って、少し利子分を負けてくれたのはびっくりした。一緒に完済済書をくれた。次は渋谷だったと思う。マンションの一室が事務所になっていた。中には二人いたが、一人はいかにもヤクザらしい人間だった。支払いをして完済済書を出してくれと頼んだら、拒否された。証拠らしきものが残るのが嫌だったのか、話をしようとすると弟が揉めたくないと止めるので、そのまま帰った。次は渋谷パルコ前で待ち合わせ(スカウトらしき人間がひっきりなしに若い女性に声をかけていた)、無店舗の闇金で電話をすると受け子みたいな人間がお金を持ってくるらしい。百貨店の階段でお金をわたし、受け子はメモ帳の切れ端に確かに受領しましたと記入し、渡してくれた。最後は、サラ金等の整理のために、弁護士事務所へ、今でこそ、過払金請求のコマーシャルがTVで一般的に流れているが、その時はまだあまり知られていなかった。普通のサラ金は弁護士が入ると大人しくなるらしいが、闇金はそうも行かないらしく、会社や親族にも迷惑がかかるので何とか返済したほうが良いということだったので、今回の返済となった。サラ金への残債は2百万円位あるようだが法的整理、最終免責ではなく、任意整理したいとのことだった。弟ながら借りたものはちゃんと返したいといい、大したモノだ、と思ったが、後にそうでもないような事がわかった。一通り、関係先を回ったあと、夕食を食べようということになり、特寿の関係の居酒屋に行くことになった。借金背負った人間に奢らせるわけにはいかないと思ったが、弟がどうしてもご馳走させてくれといって譲らないので、お言葉に甘えることにした。あっという間に最終の新幹線に間に合わなくなったので、弟の家に泊まることにした。家は三軒茶屋にあった、結構便利なところにあり、友達が借りていたところをそのまま借りているようだが、借主はそのままのようでその後、追い出されることとなる。なんと小型犬を飼っていたのは驚きだった。当然無許可である。翌日は朝始発で帰って、そのまま会社に出社した。初めて闇金と言うものを知った、良い経験になったが自分はそんな目に会いたくはないと思った。弟の借金はこれからしばらく続くことになり、それが母の悩みの種となったようだが、その事は私には知らされなかった。

だいぶ長くなったので、前編はこの辺で、明日後編を書きます。

では、今朝もお風呂に行ってきます。

 

 

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ブログ四日目

ブログ四日目、何とか文章を書く習慣が身についてきそうな予感、今日も昨日に引き続き行ってみよう。

今日は、母のお話

母は、私が物心ついた時には、家に居て専業主婦、というか家で洋裁の内職をしていた。知り合いが雑誌等のデザインを持ってきて、それに型紙を作って、持ってきた生地を切って、立体に仕上げる、いわゆるオートクチュールか。家にいると仕事の邪魔になるのか、近くの保育園に預けられていた。母が恋しくてよく泣いていたような気がする。その頃の家は、平家の借家でオンボロ長屋と言ったものだった。記憶はあまりない。保育園の遠足で競馬場に行った記憶が、かすかにある程度だ。

母は家計をよく助けていたようだ。車の免許をとり、弁当屋の配達や夜間の立ち食い蕎麦屋でも働いていた。私の大学時代の仕送りは母のお陰だと思っている。嫁を貰うならしっかりモノで生活力旺盛な人が良いと思っていた。

父と母は8歳離れていたと思う。多分見合い結婚だと思う。私の歳から逆算して父が33歳、母が25歳のときの子で、長男なので、30歳過ぎての結婚となる。当時としては父は晩婚だったのだろう。20代半ばの若い嫁さんを貰っているのでその点では恵まれていると思う。(私は若い嫁さんを貰えなかったので羨ましい)

母はすごいと思う、酒乱の父とよく一緒にいられたモノだ。一度、家から出で叔父さん叔母さんの家に逃げた事があった。親戚の中立ちで帰ってきたが、離婚でもしていたら私の人生は真っ暗だったと思う。

母は9人兄弟の末っ子と言っていた。男兄弟は三人知っているがみんな亡くなっている。すぐ上の叔父は六男という名前だったので、男は6人いたのかも知れない。その上は三男、一番上は名前を知らない。叔母さんは二人知っているので、女兄弟は三人だろう。これで勘定が合う。母がたの親戚とは子供の頃から行き来があった。よく一人で遊びに行っていた。もう故郷を離れてしばらく経つので、みんな相当歳をとっていると思う。

父も母も末っ子同士の結婚で、父は晩婚、従兄弟達の中では私と弟が一番下の方になる。年下の従姉妹が一人いた。父がたの従兄弟は、昔、父に連れられて行った事があるが、あまり記憶もなく、付き合いも深くない。結婚式に福岡の従兄弟に来てもらったら、受付をしていた妻の弟を見て先生と行ってびっくりしていた。義弟は、従兄弟の息子の高校の担任だったらしい。奇妙な縁もあるモノだ。

随分と話が脱線したが、母は今年で83歳になる。新型コロナの関係でしばらく帰省していない。もうあと何年も生きないと思うが、親孝行はしておかないとと思う。ワクチンも2回打ったので、年末には帰ってみようかと思う。

父が亡くなって、父がたの親戚と付き合いがなくなり、母がなくなれば、母がたの親戚とも関係がなくなると思う。元々、地縁が薄く、地元の知り合いも少ないので、故郷に帰る意味もなく、妻も今の家がいいと言っているので、故郷との関係は薄くなるばかりだ。もう故郷に住むこともないだろう。

だいぶ書き進めてきたので、疲れてきた。ここらで今日は終了します。

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ブログ三日目

今朝もアキレス腱が痛いのでジョギングはお休み

さあ、自分の人生の振り返りだ!

私は、昭和38年2月19日生まれ(今年58歳)

まずは父親のお話

父の職業は、国鉄職員、昭和4年生まれ、戦前に高等小学校を卒業、国鉄の職員養成学校に入学(入社)以降定年まで勤め上げた。勤続40年表彰の額が実家に飾ってある。お酒が好きで、毎日飲んでいた。アルコール中毒おまけに酒乱ときている。いわゆる酒をのむと人が変わる。飲まないといい人なんだけどと言われるタイプ。なんでそうなったかは、わからない。戦中、戦後何があったのかは、聞いたことがないが、あまり良いことはなかったのだろう。海軍の志願兵として従軍しているが、実戦経験は無いようだ。駆逐艦の通信士をしていたようだ。無事終戦を迎えられたため、今自分がいる。祖父は佐賀出身で小倉に出てきて国鉄に勤務していたらしい、それで父も国鉄に就職したらしい。父は昔の日本でそうだったように兄弟は多かったらしいが、年も離れていて、従兄弟たちは随分と年上だ。父は一緒に住んでいたようでにいちゃんと呼ばれていた。長兄は結婚後、子供ができていたが亡くなって、その奥さんは弟と再婚(当時は珍しくなかったようだ)したらしい。だからいとこ達の父は違うが母は同じで当然一緒に暮らしていた。父は末っ子だったが、すぐ上の姉、叔母さんしか生き残っていなかったのでその上の叔父さんは知らない。叔母さんは脳性小児麻痺を患い足が悪かった。しょっ中入院していた。よく見舞いに行ってはお小遣いをもらっていた。父の兄弟は二人だけのこり、叔母が死んで火葬してお骨を拾うときに、父が泣いていたのは印象的だった。父が死んでからは、父方の親戚とは付き合いがなくなり会うこともない。福岡に従兄弟が一人いて年賀状だけ交換している。また父の話に戻る。父は国鉄小倉工場の職工で肉体労働者らしく勤務終了後は毎日、会社帰りの酒屋で角打ち(酒屋の店頭飲み)していた。その酔っ払った顔を見るのが嫌だった。それでも借金して自分の家を建てたし、子供二人を一人前に育てたのは大したものだ。母の力が大きいと思うが。父はやはりこの大量飲酒が原因でか、C型肝炎、肝臓がん、肝硬変による肝不全で亡くなった。72歳だったと思う。若い頃、胃潰瘍で胃を切っているがそのときの輸血でC型肝炎になったのかもしれない。今考えても父とはあまり話をした記憶がない。あまり好きではなかったからかもしれない。なんとか死に目には会えたが、この時も通夜・葬儀でも不思議と悲しくなかった。自分は冷たい人間なのかと思う。一つ父が話していた話で覚えていることがある。「人は歳をとってくるともう人生、のこり少ないと感じる」今まさに自分の人生も折り返し点を過ぎ、週末に向かい残りの人生の年数を数えることになった。自分もその時の父の心境になってきたという事。

だいぶ疲れてきたので、父のことはこれ位にしてお風呂に入ってきます。

 

 

 

 

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今朝はジョギングはお休みです

昨日からアキレス腱が痛み出し、今朝はジョギングはお休みです。

少し時間ができたので、ブログを書いています。

今後の内容について考えていると自分の人生を振り返ってみたいと思います。それでは早速始めましょう。

その前に朝風呂に入ってきます。

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初めてのブログ

今日初めてブログを開設しました。

なかなかに説明を理解するのに時間がかかり、かれこれ4時間くらいPCいじっています。

これからは、毎日徒然に思うことを書いていきたいと思います。