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ブログ三十五日目、台風一過、緊急事態宣言も終了

昨日は、台風16号はいつの間にか通り過ぎ、いよいよ新型コロナの緊急事態宣言も解除となった。会社では無事内定式を挙行し、私のインプラントもしっかり入ったのを確認できた。

では、今日は、埼玉でのお話、

関西支店から、役職者として埼玉アポロの統括部長として転出した。初めての役職として、販売子会社に転勤となったが、もともとSSの商売に詳しいわけでもなく、どうしてこんな人事が出たのか不思議だった。新任役職者研修の会食で木藤さん(当時は人事部次長)に自信がないといった記憶があるが、そんなことを小売統括部長の細川さんに言うなよと言われた。

埼玉アポロの前任者は東京支店での後任の佐伯くんだった。(彼は沖縄アポロの社長で転出)当時の上司の社長は、星野さん(今の人事部長)で、また1年後輩の上司だった。

着任前に当時の小売統括部販売課長の大島くん(倉校同期)からメールがきて、販売子会社では3面記事に載っているようなことが毎日の様に起こる、この事態を出向者の皆さんが日々どうやって対応していくかによって子会社プロパー社員にどのような影響を与えていくかが決まってくる。だからしっかりと対応してくれと、少し脅されているのかともとれるメールが届いた。正直本当かよという気持ちだったが、実際に本当に3面記事に載るような事件を経験した。

引き継ぎの日程も決まり、さあいくぞと気合を入れていると、今度は星野社長からメールが来た。

油外販売が優秀で目標達成を継続しているSS所長が、目標未達の残金分を自腹で売上を立てたと言う事件があって、その対応の内容だった。いきなり大島課長の言ったことが現実になっていた。

目標未達分を自腹で補填したとは、表面上は問題無いかのように聞こえるが、立派な不正行為で、当時の油外収益については、給料にも影響していた(給与の不正受給にもなる)。

その所長は優秀だと将来を嘱望されていたが、サブマネに降格、月給の1割減給一ヶ月の処分が下った(やがて復活した)。

まだ、私の着任前のことだった。

また、着任したその日に当時日本一の販売量を誇っていたふじみ野SSで店長を兼務していたエリアマネジャーとバイトリーダーの女性との不倫問題が発覚していた。

星野社長と一緒にふじみ野SSに行って、二人に話を聞いた。二人ともそんなに悪いことをしたとは思っていない様だった。エリマネは他SSへ異動になり、バイトリーダーの女性は辞めてもらった。

この事件を告発したのは、パート勤務の女性で二人が抱き合っているのを見たと言う、こんなふしだらな職場では働きたくないと言って訴えてきた。結局は二人とも辞めて事件は幕引きとなった。

初っ端から、今まで経験したことのない、3面記事事件から始まったが、これから三年間ほぼ毎日こんな状態だった。

それらについては、明日から一つずつ書いて行こうと思う。

では、今日はこの位にして、これから朝散歩に行ってきます。

 

 

 

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ブログ三十四日目、もうすぐ台風

外は雨が降ってきた、もうすぐ台風がやってくる

今日は関東地区に台風がやってきそうだが、会社では内定式が行われる。昔は、10月1日は、一日どこかで拘束され夜はどんちゃん騒ぎだったが、内定式とは、変わったものだ。

それでは、今日も始めよう。

関西支店には、同期が三人いた。事務系潤滑油の同期の山口くんは販売二課で大阪南部を担当していた、私より先に名古屋に転出した。津田くんは販売子会社の京阪アポロの常務だったが、やがて病気で亡くなった(肺癌だった)。田中くんは身長180㎝・体重100㎏を超える巨漢で、一度私が齊藤課長に責められていた時に、助け舟を出してくれて非常にありがたかった。彼も亡くなって今はいない。膵臓癌だったらしい。そういえば販売一課でお世話になった高橋健二さんの訃報が少し前に回っていた。あの人も膵臓癌だった。同期が在職中に亡くなるのは寂しい限りだ。あと一人、同期で、盛岡のときの部下の葛屋くんも原因不明の突然死で亡くなった。

この年になると、昔お世話になった人の訃報に接することが多くなってきた。新入社員時代の潤滑油二課長の広瀬さんも先日なくなった。自分もこれから20年〜30年の間には、死んでいるのだろう。今を大切にしようとしみじみ思う。

2年間、齊藤課長の下で辛い思いをしたが、最後の一年は、齊藤さんは副支店長に昇格、後任課長は、事務系潤滑油の一年後輩の田口さんだった。これから後輩の上司に使えることとなる。最初は変な感覚だったが、今や三人目の後輩上司で慣れたもんだ。全然気にならない。

田口さんの時に役職に昇格してくれた様で、次の異動で埼玉アポロの統括部長として転出した。

それでは今日はこれ位にして、朝風呂に入ってきます。

 

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ブログ三十三日目、一月越えてもまだ続く

明日は、いよいよ台風16号がやってくる。

今日は、台風前の静かな一日になるのかな。

それでは、今日は、販売企画課での三年を振り返る、その前に販売一課最後の活動として、ISO14001の認証取得を支店として取得を主導したことを書いておく。前任者の斉藤さんからの引き継ぎで何とか本社の安全環境室の山口さん、山根さんの協力の元、1年かけて取得することができた。支店を動かし自信につながった。業務改善リーダーも務めた。自分の課以外でのリーダーシップを発揮した記憶である。

それでは、販売企画課での三年間を振り返る。

私の異動と一緒に課長も変わった。課長は京都支店の販売課長の齊藤さんが異動してきた。京都支店にいる時から、歯に衣着せぬ物言いをする人だなと思っていたが、これがどんどん激しくなってきた。

仕事は、揮発油の油担で、結構支店中枢の仕事を担うことになった。後にSS補修の仕事も引き継いだ。

齊藤さんとは本当に合わなかった。というよりは、自分は相当嫌われているのかと思うほど、あたりが強かった。

まあ自分の動きが、齊藤さんの期待感にかなり足らなかったんだろうと思うが、こちらは、自分なりに期待に答えようと頑張ったつもりだった。お互いの想いのギャップが辛い結果を招いた。後日、齊藤さんが常務を退任される最後の人事担当役職者会議の後、常務室に呼ばれて頭を下げられた。大阪では辛かったと思うが申し訳なかった、ごめんと頭を下げられた。常務から頭を下げられてもこちらも返答に困るが、それならもっと大阪で考えて対応してもらいたかったが、その時は余裕がなかったとのことだった。

今、少しでも当たりが強いとパワハラと言われるが、その時は本当に病院に行こうかと思った。世の中も変わったと思う。

病院と言えば、睡眠時無呼吸症の治療を開始したのもこの時期だった。

当時、新幹線が駅をオーバーランした事件があり、その原因は運転手の居眠り運転だった。居眠りの原因が睡眠時無呼吸症で全国に有名になった。

大阪市内の専門病院に行って泊まりがけの検査をしてもらった。案の定、重度の睡眠時無呼吸症と診断され、その後は、今もC-PAPという機械をつけて寝ている。また月一回の通院を継続している。C -PAPをつけるとキリが晴れるようによく眠れるという人がいるが、私はそんなによく眠れる感じはしない。特に午後に耐えがたい睡魔に襲われることがある。後にこれは、血糖値スパイクによる為だと分かったが、その時は良い睡眠が足らないと思っていた。

この時から、良い睡眠と言うものに興味があり、枕、布団、マットレス、に拘っている。コアラマットレス、エアウィーブ、通販で買った枕は、快適な睡眠に貢献している。

今日はこれ位にしておく。

 

 

 

 

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ブログ三十二日目、昨日は20時まで仕事

昨日は、珍しく20時過ぎ迄仕事した、我が社の供給本部の方向性について議論していたら、いつの間にか20時を超えていた。いつもは、おねむの時間で最後は頭が働いていなかった。

それでは、早速昨日の続き、

長男は長女と対照的で、あまりしゃべらず、自分の好き勝手に動き回り、どこかマイペースのところがあった。今もそれはあまり変わっていない。

長女の様にニコニコ笑っているのを見た記憶がない。従ってあまり興味が薄くなった。そのため長女の様にあまり可愛がった記憶がない。

身体も弱く、よく病気をした。一度、ロタウィルス感染で高槻病院に入院したことがあった。インフルエンザで高熱を出して救急車を呼んだこともあった。息子をずっと抱いていたのでお陰で翌日はこちらがインフルエンザに感染していた。

妻が長男を妊娠中に父が亡くなった。宝塚の柴田石油さんに行って部長さんと話している時に、家から電話があった。仕事中なので出ないでいると、今度は会社から電話が会った。流石に会社から急用かと出ると、田中課長からで、私の父が危篤と家から連絡があったので、すぐに帰る様にと指示が会った。販売店さんにはその旨伝え、すぐに帰社して、帰宅した。そのまま、喪服を持って、新幹線に乗り、小倉のがんセンターに直行した。父はもう死ぬ寸前で家族が全員集まるまで生かされているという状態だった。やがて東京で働いていた弟もやってきて、父はご臨終の時を迎えた。妻にはそれをすぐに伝えた。

もう時刻は真夜中を過ぎていた。葬儀屋さんは、母が互助会の会費を納めていた所へ連絡し、自分達と一緒にご遺体を曽根のセレモニーセンターへ運んでくれた。

父の遺体は布団に寝かせられ、私と弟はその隣で寝た。里見の叔母さんが来てくれて一緒に遺体を見てくれた。母は一度帰宅して身支度をして朝にまた戻ってきた。

翌日、葬儀屋さんと葬儀の様式、規模、費用について相談し、檀家であるお寺の住職さんに連絡してもらい、通夜、葬儀の相談をした。これらは初めての経験だったが何とかなるもんだ。

父の葬儀には、大阪から田中課長、宝塚石油の社長が来てくれた。宝塚石油さんには、ちょっと多めのご香典をいただいたので、気持ちだけいただきたいと思い、大阪に帰った後お礼まわりに伺ったついでにお返ししたら、のちに電話がかかってきて怒られた。黙ってもらっておいた方が良かったのか。

酒好きというか、アルコール依存症で、酒乱の気もある父で母には随分迷惑をかけた父だったが、72歳でこの世をたった。若い頃は、胃潰瘍で胃を切り、C型肝炎で二度の肝臓癌の手術、最後は肝硬変による肝不全で亡くなった。

自分も遺伝というか、お酒は好きだが、父の様にはなりたくない。お酒は本当に飲みたい時だけ飲む様にしている。

関西支店勤務も二年過ぎた頃、店内異動の内示があった。異動先は販売企画課だった。いよいよ苦難の三年が始まる。

この話は、また明日。

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ブログ三十一日目、やっと歯が入った

昨日は、インプラントの歯が、やっと2本入った。

随分と昨日は、治療に時間がかかったが、入れた歯は一晩たっても特に問題はないんで少し安心した。今の歯は仮で止めているそうで、1日に正式に固めるそうだ。その日は台風の直撃が心配だ。

さて、昨日の続き、

関西支店販売一課は北摂、阪神及び大阪市内の販売店さんを担当していた。大阪府の大阪市とその北部、兵庫県西宮市までが担当で、比較的市況がよく、店主の人柄も穏やかな所だった、

最初は、関西人っておっかない人たちの集まりかとビクビクしていたが、付き合って見ると人情もあり、なかなか面白い人たちだとわかる。色々と各地を転々としてきたが、大阪は好きな町・人の上位にランクしてもいいと思う。

大阪人は会った最初に舐められないように、何やら脅すような事を言う人が多い、所謂、「かます」ことが多い。これで大阪の人は怖いと思われがちだが、付き合いが深まるにつれて人柄が伝わってくる。

商売も要求が厳しいが、それが終わるとそれまでの交渉を忘れて楽しむという切り替えの早いところもある。

飲んだり、食べたり、遊んだり、時々仕事という最初の二年を販売一課で過ごした。忘れられないのが、柴田社長とホノルルマラソンの話をしていて、自分も挑戦できるかもと思って、ジョギングを初め、今まで続けてきた。その間、十数回もフルマラソンを完走した。このことは、今でも自分の自信に繋がっている。去年からマラソン大会が中止で寂しい限りだ。また夏の大阪湾の埋立地で24hマラソンに、皆んなで参加したこともいい思い出になっている。テントやビニール椅子を手配して、氷をもらって飲み物を冷やしたり、カレーを作ったり、まるで大勢でキャンプをしているようで楽しかった。

また、この時、長男が生まれた。転勤でまた水が変わって良かったのか一姫二太郎がちゃんとハマった。今度は逆子のようで自宅出産とはいかず、病院で帝王切開することになった。出産日も10月1日と決まり、呼ばれた時間に病院で待っていると生まれた赤ちゃんが運ばれてきた。まあなんと感動も何もないことか、長女が感動的なだけに対比が激しかった。

無事に誕生はしたものの、男の子は体が弱くよく体を壊した。病院のお世話によくなった。その子も今では大学生になっている。やっと家族が四人、一家が揃った。

それでは、今日はこのくらいにして、朝散歩行ってきます。

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ブログ三十日目、今日から仕事

シルバーウィークも終わり、今日からいよいよ仕事が始まる。

最近は、在宅勤務もあり、日曜の夕方のサザエさん症候群はあまり感じなくなったような気がする。

それでは、今日もいってみよう。

広島からそろそろ転勤が近づいてくると、上司からどこへ転勤したいかと問われたことがあった。父がもう長くないと思うので、福岡かすぐに帰れる所がいいと言った。

転勤の発表があると、それは大阪だった。希望した方角と反対だが、それでも新幹線で一本だし、実際に父の死に目にも会えた。

転勤先の関西支店販売一課には、課長には販売部で一緒だった田中さん、先輩に東京支店で一緒だった高橋さんがいた。後輩は、柳井くんと山口くんの2名に女性社員が1名、彼女は、私の前任者の宮田くんと結婚し退社した。

初めての販売店担当で、直売ばかりの経験に幅を持たせる為の配慮が伺われるが、なんとも自分には自信が無かった。

新進気鋭の柴田石油、田中実業と旧態派の宝塚石油、大阪市内の小販売店を担当した。

柴田石油、田中実業には色々と勉強させてもらった。

柴田石油は、何年か前に50周年を迎え、式典に招待されて大阪へ行った。

田中実業は、大阪の店を閉めて今は事務所も引き払っていると思う。

大阪での五年間も色々なことがあったので、ゆっくりと書いて行こうと思う。

それでは、今日はこれくらいにして、朝散歩に行ってきます。

 

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ブログ二十九日目、今日は帰京します。

昨日は、夏油温泉から午前中に帰って、午後は、部屋でゆっくり、ブログその他PCいじり、夜はまたスパークリングワイン一本開けた。

今日は、朝から川崎に帰る、来月は船舶免許の更新講習があるので、8日に帰りマンションの抵当権抹消申請を法務局に出して、10日の講習後の戻る予定だ。

それではまた昨日の続き、

娘の誕生は、我が家の一大事、それも自宅出産で私が取り上げた。すごく貴重な経験をさせてもらった。しばらく娘の寝顔を見るのが好きだった。娘をお風呂に入れるのは私の役目だった。うんちの後の始末も私がした。風呂場のバケツにお湯を入れてそのまま娘を入れて洗ってあげた。いつも気持ち良さそうにしていた。ある日、風呂の中でうんちを漏らしたことがあった。話には聞いていたが我が家で本当にあった話だ。よっぽど気持ちが良かったのだろう。

一姫二太郎と良くいうが、女の子は病気をせず育てやすかった。良く笑い、みんなに可愛いがられた。少し多動の気があり、妻は心配していたが、まあ子供にありがちな行動を取るだけだと思う。

四年間、この初めての自宅ですくすくと育っていった。子供ができると仕事にもハリができるし、第一、仕事を早く終わって帰りたくなる。

広島から、小倉の両親に孫の顔を見せに何度か行った。親父は、よちよち歩きの娘のあとをとぼとぼおって行った。初孫が可愛かったのだろう。晩婚が二代続いたので、本当に遅い孫になった。親父は後、数年で他界する。

この時の家族仲が一番良かったように思う。

夫婦お互いにもう歳なので、私は、早く二人目が欲しかった。妻はそう思っていないようで、二人目はしばらくいらないということだった。まあ育児は大変なので、私も無理強いはしなかった。結局、次の長男は5年後になる。これは、年取った後の遅い子になった。

広島支店は、途中、経費節減の為に、富士見町のSSの上と矢野の研修センター後の二箇所に分かれた。事務所を二分するとは、何とも非効率的なことをしたものだと思う。何度も支店長説明のたびに富士見町に赴いた。支店長が変わるとやっぱり事務所を一緒にしようということで、また市内鶴見町に支店を移転した。広島では事務所を三箇所経験した。

広島では自宅の購入、長女の誕生、事務所の移転等、さまざまな経験をした思い出の地となった。自宅は、この後借家として貸すことになるが、その話はまた明日。

今日はこの辺で終わります。

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ブログ二十八日目、昨日は夏油温泉

昨日から、妻と夏油温泉に行ってきた。夏油と書いて、げとうと読む。アイヌ語の「ゲット、オ」崖を表す言葉が語源らしい。宿泊は、元湯夏油、源泉が7つもある宿で鄙びた湯治宿を思わせる秘湯の宿だった。

昨日と、今朝と7つのお湯に全部入り、温泉を満喫した。ここの温泉は珍しく、川沿いの底からお湯が湧き出し、そのまま湯船を作っているので、源泉掛け流しならぬ、足下湧泉だそうだ。

では、今日は、娘の誕生について書いてみる。

広島に転勤後、妻は不妊治療のため、市内の産婦人科に通っていた。もう子供はできないのかなと思って、自宅も購入したが、引っ越してしばらくして妊娠の知らせがあった。

寂しいので、動物でも飼おうかなと思っていた矢先だった。

妊娠の経過は順調で、定期検診でも問題なく赤ちゃんはすくすくと育っていた。ある時、妻が自宅出産したいと言い出した。おいおいと思ったが、妻なりに考えて助産婦さんとも交流があったらしい。出産は、ほぼ予定通りで、予定日の2月13日の金曜日ではなく、翌日の2月14日の土曜日バレンタインデーに生まれた。13日から陣痛は始まっていたが、初産だし助産婦さんもまだ生まれないだろうと思っていたらしい。お昼前に妻が、風呂に入ると言い出した。お湯は沸かしていたが、後ろから見るとなんだか出て来そうな雰囲気だったので、かけ湯をしてすぐに床に寝ろと声をかけた。妻が湯船に足をかけた瞬間、股からぬるっと何かが出てきた。慌てて手を出した瞬間の感触は忘れられない。手伝いにきていた妻のお母さんに大声で、赤ちゃんが出てきたと叫んだら、これで受けろと洗面器を渡され、洗面器を下に構えたところ、ゴロンと赤ちゃんが出てきた。今考えると超安産だった。

とりあえず、切り離せとお母さんから言われ、ハサミを持ってこいと言われた、どこだどこだと探していると、裁縫箱の中と言われたので、裁ち鋏を持っていった。これは正解だった。ここら辺から切れと言われ、臍の緒の中程をハサミで切ったら、案の定大量の血が流れでた。本当は、ハサミを入れる両橋を紐で結ぶのが正しいがそんなことは知らなかった。ただ場所が、風呂場だったので、大量の血も羊水と一緒にシャワーで洗い流し、事なきを得た。

助産婦さんは、息子さんの結納が午前中にあったらしく、我が家へついたのは、午後になってからだった。赤ちゃんを少し熱めのお湯に浸し、体を洗うと僅かに泣き出した。産湯を使うとはこのことで、その時オギャーと声を出すらしい。助産婦さんが臍の緒を引っ張って胎盤を出してひとまず出産は完了、今日からの育児は助産婦さんが面倒見てくれるらしい、その場で35万円位請求され、急いで引き出しに行ったことを覚えている。その日は、お母さんと無事生まれてよかった、おめでとうとスパークリングワインで乾杯した。

この自宅出産の話は、しばらく話題として使わせてもらったが、女性はみんな興味深く聞いていた。

その娘ももう22歳になる、早いものだ。

ここまで一生懸命書いたので、少し疲れた。今日はこの位にしておく。

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ブログ二十七日目、盛岡にて

昨日から、盛岡に帰省中、昨晩は、スパークリングワイン1本、かん酎ハイ1本飲んで、撃沈、朝起きたのは5時半、久しぶりに良く寝た。二日酔いもない。

それでは、昨日の続き、

本社の仕事も一人前になり、結婚して家庭を持ち、公私共に充実してきてそろそろ転勤かと思っていると、転勤の内示があった。転勤先は、広島支店。

広島には、C重油の需要家もたくさんあったので、担当の小野さんともよく話す機会があって、馴染みのある支店だった。

当時の支店は街中の八丁堀という所にあった。支店の人が入っている宇品の社宅は空いていないようで、東区の借り上げ社宅に入った。これはこれで寂しかったが、まあ人間関係のしがらみが無くてよかった。

仕事は、前任者から引き継いだ中国電力とA重油の油担だった。中国電力はハイサルファーのC重油をまだ使っている数少ない電力で、ローサルファーの原油(大慶原油)も使っていた。C重油は、前月末までに価格提示を行い、安い方から発注する。合理的でわかりやすい買い方だが、こっちは、オーダーを確保するために安売りしなければならない。広島が地元のマツダといい、買い方の厳しい需要家が多かった。

広島で初めて後輩ができた。相馬くんといい、今どこにいるのだろう。しばらく会ってない。自分は30歳すぎてもう中堅社員の域に達していた。

子供もできないし、そろそろ資産形成のために、家を買おうと思った。先輩から広島は土地が少ないし地価はあまり下がらないと言われたが、後に土地神話は崩れてどんどん地価は下がっていった。まあ読みが甘かった。

郊外の安佐北区に先輩が住んで居たので、その近くの物件も回っていた。不動産のチラシを見て不動産屋に休みのたびに中古物件を見せてもらった。広島の土地がわかり結構楽しかった。

やはり、マンションより土地付きの一戸建てが欲しかった。自ずと場所は郊外になり、安佐北区や安佐南区になった。

安佐北区に築浅で良さげな中古住宅があったが3000万円と少し自分には手が出なかった、注文住宅で、二階建て3LDKの作りは気に入っていた。立てた時の費用は4000万円超えていたらしい。

2500万円なら買うと不動産屋に言っていたら、売主からそれでいいと連絡が入ったらしい。売主は、近くにご両親と住む二世帯住宅を建てていた。損金はご両親が負担するとのことだった。

安佐北区の田舎だが、自然豊かで静かなところに、庭付きの一戸建てをもつことができた。あとは家族が増えることを待つだけだったが、その話はまた明日。

それでは今日はここまで。

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ブログ二十六日目、シルバーウィーク後半は、盛岡へ

昨日は、夜中に起きて二度寝できず、昼間はすごく眠かった。今朝も起きたのは1時20分、今日は新幹線で昼寝しよう。

昨日も、一日Teams会議、パワハラ事件のヒアリング、人間って、他人からの見方はそれぞれ変わるので、自分は一面しか見ていないということが良くわかった。自分の身に振り替わって考えてみようと思った。

それでは、昨日の続き、

本社、販売部では組織替えがあり、販売三課は営業一課と名称変更になった。全国にも営業課ができた。原油価格がどんどん下がり、中間留分の価格是正が急務で、計画出荷という施策も始まった。販売会社なのに好きなだけ売ってはいけないという時代だった。

そうしているうちに、湾岸戦争が始まり、原油価格が高騰、製品市況も好転して、石油会社の収益も回復した。一息ついた瞬間だった。

石油会社は何年に一回かこうした神風が吹いて、元気を取り戻すことが多い。だから会社数が多く、過当競争が続いていた。今じゃ考えられない。

本社にいる時に結婚した。相手は、同郷の北九州の人、30歳前でそろそろ結婚しようと思い、親にいい話があれば、紹介して欲しいと頼んだ、数人紹介してもらったが、あいにくご縁がなかった。今の妻は、実家のお向かいさんの奥さんの同僚のお姉さん。

父親を病気で亡くし、母子家庭、四人兄弟の長女で、転勤して故郷を離れても構わないとのことだった。容姿はそんなに気に言ったわけではなかったが、母子家庭で金銭的にしっかりして居そうなことと、兄弟の弁当を作っていたということで、料理がうまいと評判だったので結婚した。まあその読みは間違ってなくて、二十数年後の今では自宅も持っているし、老後の資産も少しは蓄えられた。結婚当初の食事は豪勢だった、今はそうではないが・・・

すぐに子供が欲しかったが、妻は重症の子宮内膜症で生理のたびに寝込むほどひどく、麻布の赤十字病院に通っていた。しばらくピルを飲んで生理を止めていたが、結局手術をして卵巣を一個とった。私は、出産には問題がないということで、手術に賛成した。

手術後、数年子供はできなかったが、広島へ転勤した後、水が変わってよかったのか、最初の子供ができた。この経緯は後に話したい。

そんなに好きで結婚したわけではなかったが、夫婦仲はそんなに悪くはなく、毎日、早く帰って一緒に夕食を食べ、休みにはいろんなところに遊びに行き、外食や外国旅行にも毎年行っていた。子供がまだ居なかったので、夫婦二人で都会生活をエンジョイして居た。今考えると夫婦の一番良い時代だったと思う。

妻は、大田区久ヶ原の社宅から都会のいろんなところに遊びに行って居たらしい。専業主婦だし、こちらも都会生活を満喫していた。

そんなこんなで東京生活も長くなり、いよいよ転勤の時期となってきた。転勤先は広島、それでは、また明日に続く。