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ブログ三十日目、今日から仕事

シルバーウィークも終わり、今日からいよいよ仕事が始まる。

最近は、在宅勤務もあり、日曜の夕方のサザエさん症候群はあまり感じなくなったような気がする。

それでは、今日もいってみよう。

広島からそろそろ転勤が近づいてくると、上司からどこへ転勤したいかと問われたことがあった。父がもう長くないと思うので、福岡かすぐに帰れる所がいいと言った。

転勤の発表があると、それは大阪だった。希望した方角と反対だが、それでも新幹線で一本だし、実際に父の死に目にも会えた。

転勤先の関西支店販売一課には、課長には販売部で一緒だった田中さん、先輩に東京支店で一緒だった高橋さんがいた。後輩は、柳井くんと山口くんの2名に女性社員が1名、彼女は、私の前任者の宮田くんと結婚し退社した。

初めての販売店担当で、直売ばかりの経験に幅を持たせる為の配慮が伺われるが、なんとも自分には自信が無かった。

新進気鋭の柴田石油、田中実業と旧態派の宝塚石油、大阪市内の小販売店を担当した。

柴田石油、田中実業には色々と勉強させてもらった。

柴田石油は、何年か前に50周年を迎え、式典に招待されて大阪へ行った。

田中実業は、大阪の店を閉めて今は事務所も引き払っていると思う。

大阪での五年間も色々なことがあったので、ゆっくりと書いて行こうと思う。

それでは、今日はこれくらいにして、朝散歩に行ってきます。

 

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ブログ二十九日目、今日は帰京します。

昨日は、夏油温泉から午前中に帰って、午後は、部屋でゆっくり、ブログその他PCいじり、夜はまたスパークリングワイン一本開けた。

今日は、朝から川崎に帰る、来月は船舶免許の更新講習があるので、8日に帰りマンションの抵当権抹消申請を法務局に出して、10日の講習後の戻る予定だ。

それではまた昨日の続き、

娘の誕生は、我が家の一大事、それも自宅出産で私が取り上げた。すごく貴重な経験をさせてもらった。しばらく娘の寝顔を見るのが好きだった。娘をお風呂に入れるのは私の役目だった。うんちの後の始末も私がした。風呂場のバケツにお湯を入れてそのまま娘を入れて洗ってあげた。いつも気持ち良さそうにしていた。ある日、風呂の中でうんちを漏らしたことがあった。話には聞いていたが我が家で本当にあった話だ。よっぽど気持ちが良かったのだろう。

一姫二太郎と良くいうが、女の子は病気をせず育てやすかった。良く笑い、みんなに可愛いがられた。少し多動の気があり、妻は心配していたが、まあ子供にありがちな行動を取るだけだと思う。

四年間、この初めての自宅ですくすくと育っていった。子供ができると仕事にもハリができるし、第一、仕事を早く終わって帰りたくなる。

広島から、小倉の両親に孫の顔を見せに何度か行った。親父は、よちよち歩きの娘のあとをとぼとぼおって行った。初孫が可愛かったのだろう。晩婚が二代続いたので、本当に遅い孫になった。親父は後、数年で他界する。

この時の家族仲が一番良かったように思う。

夫婦お互いにもう歳なので、私は、早く二人目が欲しかった。妻はそう思っていないようで、二人目はしばらくいらないということだった。まあ育児は大変なので、私も無理強いはしなかった。結局、次の長男は5年後になる。これは、年取った後の遅い子になった。

広島支店は、途中、経費節減の為に、富士見町のSSの上と矢野の研修センター後の二箇所に分かれた。事務所を二分するとは、何とも非効率的なことをしたものだと思う。何度も支店長説明のたびに富士見町に赴いた。支店長が変わるとやっぱり事務所を一緒にしようということで、また市内鶴見町に支店を移転した。広島では事務所を三箇所経験した。

広島では自宅の購入、長女の誕生、事務所の移転等、さまざまな経験をした思い出の地となった。自宅は、この後借家として貸すことになるが、その話はまた明日。

今日はこの辺で終わります。

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ブログ二十八日目、昨日は夏油温泉

昨日から、妻と夏油温泉に行ってきた。夏油と書いて、げとうと読む。アイヌ語の「ゲット、オ」崖を表す言葉が語源らしい。宿泊は、元湯夏油、源泉が7つもある宿で鄙びた湯治宿を思わせる秘湯の宿だった。

昨日と、今朝と7つのお湯に全部入り、温泉を満喫した。ここの温泉は珍しく、川沿いの底からお湯が湧き出し、そのまま湯船を作っているので、源泉掛け流しならぬ、足下湧泉だそうだ。

では、今日は、娘の誕生について書いてみる。

広島に転勤後、妻は不妊治療のため、市内の産婦人科に通っていた。もう子供はできないのかなと思って、自宅も購入したが、引っ越してしばらくして妊娠の知らせがあった。

寂しいので、動物でも飼おうかなと思っていた矢先だった。

妊娠の経過は順調で、定期検診でも問題なく赤ちゃんはすくすくと育っていた。ある時、妻が自宅出産したいと言い出した。おいおいと思ったが、妻なりに考えて助産婦さんとも交流があったらしい。出産は、ほぼ予定通りで、予定日の2月13日の金曜日ではなく、翌日の2月14日の土曜日バレンタインデーに生まれた。13日から陣痛は始まっていたが、初産だし助産婦さんもまだ生まれないだろうと思っていたらしい。お昼前に妻が、風呂に入ると言い出した。お湯は沸かしていたが、後ろから見るとなんだか出て来そうな雰囲気だったので、かけ湯をしてすぐに床に寝ろと声をかけた。妻が湯船に足をかけた瞬間、股からぬるっと何かが出てきた。慌てて手を出した瞬間の感触は忘れられない。手伝いにきていた妻のお母さんに大声で、赤ちゃんが出てきたと叫んだら、これで受けろと洗面器を渡され、洗面器を下に構えたところ、ゴロンと赤ちゃんが出てきた。今考えると超安産だった。

とりあえず、切り離せとお母さんから言われ、ハサミを持ってこいと言われた、どこだどこだと探していると、裁縫箱の中と言われたので、裁ち鋏を持っていった。これは正解だった。ここら辺から切れと言われ、臍の緒の中程をハサミで切ったら、案の定大量の血が流れでた。本当は、ハサミを入れる両橋を紐で結ぶのが正しいがそんなことは知らなかった。ただ場所が、風呂場だったので、大量の血も羊水と一緒にシャワーで洗い流し、事なきを得た。

助産婦さんは、息子さんの結納が午前中にあったらしく、我が家へついたのは、午後になってからだった。赤ちゃんを少し熱めのお湯に浸し、体を洗うと僅かに泣き出した。産湯を使うとはこのことで、その時オギャーと声を出すらしい。助産婦さんが臍の緒を引っ張って胎盤を出してひとまず出産は完了、今日からの育児は助産婦さんが面倒見てくれるらしい、その場で35万円位請求され、急いで引き出しに行ったことを覚えている。その日は、お母さんと無事生まれてよかった、おめでとうとスパークリングワインで乾杯した。

この自宅出産の話は、しばらく話題として使わせてもらったが、女性はみんな興味深く聞いていた。

その娘ももう22歳になる、早いものだ。

ここまで一生懸命書いたので、少し疲れた。今日はこの位にしておく。

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ブログ二十七日目、盛岡にて

昨日から、盛岡に帰省中、昨晩は、スパークリングワイン1本、かん酎ハイ1本飲んで、撃沈、朝起きたのは5時半、久しぶりに良く寝た。二日酔いもない。

それでは、昨日の続き、

本社の仕事も一人前になり、結婚して家庭を持ち、公私共に充実してきてそろそろ転勤かと思っていると、転勤の内示があった。転勤先は、広島支店。

広島には、C重油の需要家もたくさんあったので、担当の小野さんともよく話す機会があって、馴染みのある支店だった。

当時の支店は街中の八丁堀という所にあった。支店の人が入っている宇品の社宅は空いていないようで、東区の借り上げ社宅に入った。これはこれで寂しかったが、まあ人間関係のしがらみが無くてよかった。

仕事は、前任者から引き継いだ中国電力とA重油の油担だった。中国電力はハイサルファーのC重油をまだ使っている数少ない電力で、ローサルファーの原油(大慶原油)も使っていた。C重油は、前月末までに価格提示を行い、安い方から発注する。合理的でわかりやすい買い方だが、こっちは、オーダーを確保するために安売りしなければならない。広島が地元のマツダといい、買い方の厳しい需要家が多かった。

広島で初めて後輩ができた。相馬くんといい、今どこにいるのだろう。しばらく会ってない。自分は30歳すぎてもう中堅社員の域に達していた。

子供もできないし、そろそろ資産形成のために、家を買おうと思った。先輩から広島は土地が少ないし地価はあまり下がらないと言われたが、後に土地神話は崩れてどんどん地価は下がっていった。まあ読みが甘かった。

郊外の安佐北区に先輩が住んで居たので、その近くの物件も回っていた。不動産のチラシを見て不動産屋に休みのたびに中古物件を見せてもらった。広島の土地がわかり結構楽しかった。

やはり、マンションより土地付きの一戸建てが欲しかった。自ずと場所は郊外になり、安佐北区や安佐南区になった。

安佐北区に築浅で良さげな中古住宅があったが3000万円と少し自分には手が出なかった、注文住宅で、二階建て3LDKの作りは気に入っていた。立てた時の費用は4000万円超えていたらしい。

2500万円なら買うと不動産屋に言っていたら、売主からそれでいいと連絡が入ったらしい。売主は、近くにご両親と住む二世帯住宅を建てていた。損金はご両親が負担するとのことだった。

安佐北区の田舎だが、自然豊かで静かなところに、庭付きの一戸建てをもつことができた。あとは家族が増えることを待つだけだったが、その話はまた明日。

それでは今日はここまで。

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ブログ二十六日目、シルバーウィーク後半は、盛岡へ

昨日は、夜中に起きて二度寝できず、昼間はすごく眠かった。今朝も起きたのは1時20分、今日は新幹線で昼寝しよう。

昨日も、一日Teams会議、パワハラ事件のヒアリング、人間って、他人からの見方はそれぞれ変わるので、自分は一面しか見ていないということが良くわかった。自分の身に振り替わって考えてみようと思った。

それでは、昨日の続き、

本社、販売部では組織替えがあり、販売三課は営業一課と名称変更になった。全国にも営業課ができた。原油価格がどんどん下がり、中間留分の価格是正が急務で、計画出荷という施策も始まった。販売会社なのに好きなだけ売ってはいけないという時代だった。

そうしているうちに、湾岸戦争が始まり、原油価格が高騰、製品市況も好転して、石油会社の収益も回復した。一息ついた瞬間だった。

石油会社は何年に一回かこうした神風が吹いて、元気を取り戻すことが多い。だから会社数が多く、過当競争が続いていた。今じゃ考えられない。

本社にいる時に結婚した。相手は、同郷の北九州の人、30歳前でそろそろ結婚しようと思い、親にいい話があれば、紹介して欲しいと頼んだ、数人紹介してもらったが、あいにくご縁がなかった。今の妻は、実家のお向かいさんの奥さんの同僚のお姉さん。

父親を病気で亡くし、母子家庭、四人兄弟の長女で、転勤して故郷を離れても構わないとのことだった。容姿はそんなに気に言ったわけではなかったが、母子家庭で金銭的にしっかりして居そうなことと、兄弟の弁当を作っていたということで、料理がうまいと評判だったので結婚した。まあその読みは間違ってなくて、二十数年後の今では自宅も持っているし、老後の資産も少しは蓄えられた。結婚当初の食事は豪勢だった、今はそうではないが・・・

すぐに子供が欲しかったが、妻は重症の子宮内膜症で生理のたびに寝込むほどひどく、麻布の赤十字病院に通っていた。しばらくピルを飲んで生理を止めていたが、結局手術をして卵巣を一個とった。私は、出産には問題がないということで、手術に賛成した。

手術後、数年子供はできなかったが、広島へ転勤した後、水が変わってよかったのか、最初の子供ができた。この経緯は後に話したい。

そんなに好きで結婚したわけではなかったが、夫婦仲はそんなに悪くはなく、毎日、早く帰って一緒に夕食を食べ、休みにはいろんなところに遊びに行き、外食や外国旅行にも毎年行っていた。子供がまだ居なかったので、夫婦二人で都会生活をエンジョイして居た。今考えると夫婦の一番良い時代だったと思う。

妻は、大田区久ヶ原の社宅から都会のいろんなところに遊びに行って居たらしい。専業主婦だし、こちらも都会生活を満喫していた。

そんなこんなで東京生活も長くなり、いよいよ転勤の時期となってきた。転勤先は広島、それでは、また明日に続く。

 

 

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ブログ二十五日目、明日は盛岡帰省

昨日は、中秋の名月、久し振りにお月様を見た。

昨日は、当社のパワハラ告発を受けた当人のヒアリング、被害者と目される人物からの発言告発について肝心の部分について、「記憶にない」との回答。ロッキード事件じゃないぞ、お前は政治家か?という回答に、弁護士と相談したら、ハッキリとした発言でなければ曖昧な答えより、「覚えていない」と答えた方が良いと言われたとのこと。弁護士に知恵を付けられているとはいえ、「言ってはいない」と言えばいい所を「記憶にない」とは何か隠しているんではと思うのは当然で、心象が悪くなるとは思はないのか。

今日も、二人の参考人とのヒアリングをするが、二人とも火の気が飛ばないように知らぬ存ぜねの対応になるんじゃないだろうか。やっぱりこの会社は自分の会社を良くしようという自浄作用が弱いように思う。

それでは、昨日の続きを、

時は、平成に代わり、二年がたった平成三年、いよいよ本社販売部へ転勤となる。東京支店時代には、販売部とは色々と付き合いができたが、いよいよその只中に入ることとなった。本社へは同期の中川くんと一緒に異動し、販売三課へ配属された、同期の酒井くんは販売企画課へ配属され、今の社長の木藤さんや副社長の丹生谷さんと一緒で、今や我が社の経理・財務部門を支えるCOOだ。

販売三課は直売需要家担当で、主にC重油という一番値段の安い燃料を販売していた。高度成長期は日本の産業を支える燃料で、花形油種だったが、今は揮発油や中間留分にその地位を奪われた。まだ、電力会社への納入が残っていてステータスはあった。

私は、窯業、非鉄、食品、造機の需要家とC重油の油担をしていた。その後、先輩の異動に伴い、あのジェット燃料談合事件で有名になった防衛庁(今は防衛省)を担当した。

仕事と言えば、毎月、「月刊出光」を持って需要家を回り、時々、石油情勢を説明したりして情報交換すること。見方によっては、文字通り「油を売って」いた。同和鉱業の資材部長さんとは、いつもゴルフの話ばかりしていた。四半期毎に指標価格である「C重油のフォーミュラ価格」や「鉄鋼価格」が決まるので、それを元に価格交渉をして居た。この時が仕事らしい仕事だった。あとは年末年始の挨拶、年始の挨拶には社長が伺うので結構準備が大変だった。年末には需要家との忘年会もあり、結構贅沢にいい物も食べさせてもらった。本社での五年間が一番仕事をしていて面白かった。

30歳になり、そろそろ結婚しようかと思い始めた。その話はまた明日。

 

 

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ブログ二十四日目、シルバーウィーク半ば

昨日も、二日続けて晴天、一週間ぶりにSUP、立って漕ぐことに挑戦しました、最初上手くいって居ましたが、座った方が、安定するし楽なので、またあぐらをかいて漕いでいました。

ボードを洗うついでにシャワーを浴びてから、近くの定食屋で昼食、ビールを飲みながら唐揚げ定食、ビール一本では足りず、帰ってまた白ワインを一本開けました。これで今日も撃沈です。酔っ払って、ワイングラスを倒してしまい、グラスを二つも割ってしまいました。大切にしていたグラスなので残念でした。

それでは、昨日の続き、

東京支店では、能登谷さんの元で、東くんと一緒に、推進会活動や販促活動、いろんな人たちと仕事をした。SSの事もこの時、少しはわかったと思う。当時、会社の収入源はガソリンだった、石油製品は連産品で石油ガスから重油までが蒸留すると自動的にできてくる。但し、製品によって需要構造も価格、かかっている税金も違うため、自ずと収益構造も決まってくる。揮発油、所謂ガソリンが石油会社の主力収益商品となる。この価格と販売数量が収益を左右する為、このガソリンの販売促進が重要になる、但し安値合戦は避けたいため、安値看板の競争は極力やめたい。当時は、バブル期で東京の地価高騰は凄まじく、その為全国でも東京のガソリン市況は高くて、東京は儲かる支店となっていた。しばらくして石油製品の自由化が進み、ガソリン市況が下がり出すと一気に収益が悪化した。今はまた市況は上がってきたようで、盛岡の田舎より、川崎の方が値段が高い。

代わりに中間留分の灯油・軽油・A重油の価格が安くて儲からなかった。後にこの価格体系の是正が大変だった。

東京支店での三年間は、若い人たちも多く、一緒に仕事した人たちも多くて、いろんな仕事を覚えて、いよいよ社会人として一人前になってきたかなという自覚もできてきた。

次に、本社へ転勤になるが、それはまた明日。

 

 

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ブログ二十三日目、三連休終日

昨日は、台風一過の晴天で気持ちも良かったので、サイクリング20km

今日も天気はいいので、SUPで多摩川クルージング予定。

それでは、今日も続きます。

東京支店へは、五人の同期が転入し、元いた同期一人と60年入社は六人と大勢力になった。

その中でも、小倉高校の同期が三人集まり、大先輩の竹内副支店長と後輩のヒガキ石油の娘と五人の倉高出身者で同窓会をした。

東京支店では、販売一課に配属され、外販店、産業用燃料の軽油を担当した。用途が産業用なので、潤滑油課から転勤してきた私も取っ付きやすかった。また軽油の担当という点もジーゼル繋がりで分かりやすかった。

販売一課は隅田課長の元、ベテランから若手まで年齢構成もバランスよく当初から楽しく仕事ができた。ただ、一年で、販売二課の東くんと一緒に販売企画課に異動になりちょっと寂しかった。販売企画課では、能登谷さんの元で販売促進を勉強し、揮発油を担当した。

同じ頃、本社販売部から副支店長で野田さんが転勤してこられ、よく副支店長席の前で立たされて指導された。非常に思い出深い。

販売一課に居た頃から、本社販売部との繋がりができて、会議等で説明に行くことが多くなった。軽油担当の時は、販売部販売二課、販売企画課では販売部販売一課と仕事をする機会が増え、顔も広くなった。

二十代半ばで、それもバブル期に東京で過ごすことができ、金沢とは環境が大きく変わり、楽しくも厳しい会社生活が続いていた。

独身寮は荻窪寮といい、SSの二階、その上には社宅があった。所謂、高層化SSだが今は建物は取り壊され、セルフSSとなってる。

白山寮と違い、寮生も多く、寮会も賑やかだった。

最初は大部屋に先輩と二人部屋だったが、しばらくして平成元年入社組が大量に辞めてその余波で独身寮が一人部屋になることになり、大部屋は改装されて個室となった。

世の中は、好景気で採用活動は買い手市場、当社の独身寮が一人部屋になるとは時代が変わっていくのを感じた。

今朝は、これ位で朝散歩に行ってきます。

 

 

 

 

 

 

 

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ブログ二十二日目、昨日はよく寝た

昨日は、台風の前の大雨で散歩はお休み、月一回行かなきゃならない睡眠時無呼吸症の通院後、昼はいつものようにサウナへ行くと、サウナで元上司の山本さんと会い、いつものように一緒に昼飲み、その後、もう一度サウナに入って帰宅、山本さんがサウナ前の椅子で居眠りをして居たので、先に帰ると声をかけて帰った。

家では、また白ワインを開けて、昼飲みの続き、YouTubeを見ながら飲んでいるといつの間にか気を失っていて、目が覚めたのは10時前だった。すぐに二度寝開始、次の起きたのが、朝の四時半、いつもの時間だ。

それでは、今日は金沢での仕事の話をします。

金沢支店の潤滑油課は担当エリアは富山、石川、福井の北陸三県、富山が一番の需要地だが、石川の小松製作所も需要家としては無視できない大手需要家だ。

全国の統轄支店では四国の高松と並び、最も小さい支店だ。潤滑油と一言で行ってもその種類はさまざまで、普通の人はエンジンオイル位しか知らないが、その他、工業用の潤滑油の種類はすごく多い。

大支店の潤滑油課は油担制と言って、潤滑油の種類毎の担当になっているが、小支店ではそうもいかず、金沢では、県担制だった。私は石川県の担当で、油担は陸運・建設、所謂ジーゼルエンジンオイル。

ジーゼルエンジンオイルには粘度指数によって、シングルグレードとマルチグレードに別れる。油は熱いとサラサラ、寒いとドロドロになる。その度合いが少ないのがマルチグレードオイル。モービル1のコマーシャルを思い出してもらうと分かりやすい。始動時や冬場の燃費が良くなる。燃料代の節約になり、コスト削減ができるが、オイルの値段が高い。これを売っていた。

一つの思い出は、JRにこれを売り込んだことだ。でっかい機動車で冬場の起動性の試験をやってそれを全国の技術発表会で発表した。当時のJRでは冬場は機動車のエンジンは止めない、一晩中回しっぱなしだ。一度止めるとエンジンが掛かりにくくなるそうだが、何とも燃料がもったいないことだ。そこでマルチグレードエンジンオイルの紹介となる。私が居た時は、正式採用にはならなかったが、後任者で納入に成功したらしい。少しでも自分の足跡が残せたのは誇らしいことだ。そんなこんなで朝から晩の遅くまで働いていた記憶がある。

それでは、今日はこれ位にして、台風一過の空を見ながら散歩に行ってきます。

 

 

 

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ブログ二十一日目、今日は台風の一日

外は、これから台風がくるため、風の音が強くなってきた。

今朝は雨で朝散歩ができないので、ブログをゆっくりと書ける。では昨日の続きを始めよう。今日は金沢・北陸についてを書いてみる。

金沢と言えば、言わずと知れた北陸の「小京都」、名所旧跡も多い観光地、背景には能登・加賀の温泉地もあり、他の地域から見ると羨ましいところかもしれない。

初めて、金沢の人に言われたのは、「弁当忘れても傘忘れるな」ということだった。それ程、雨の多い土地だということ。米所と言われる所は、水が豊富=雨が多い。

ご多分に漏れず、北陸も米所=雨が多い。特に冬はこれが雪に変わる。寮母の徳丸千代さん曰く、昭和38年の三八豪雪の時は、2階で寝ていても雪を踏む足音が聞こえたということだ。2mは一晩で積もったということ。おかげで冬は、朝から雪かきが大仕事になる。

北陸は当たり前だが、夏暑くて、冬寒い。典型的な四季がハッキリとした気候である。夏涼しい東北とはちょっと違う。

冬、年末近くになると、「雪お越し」別名「ぶりお越し」と言って、真夜中にいきなり雷が鳴り出し、それを合図に雪が降り始める。その頃から富山湾では、寒鰤が取れ始める、季節の風物詩だ。九州育ちの私にはびっくりしたことを覚えている。

北陸人の人柄を表す言葉に「越中強盗、加賀乞食、越前の詐欺、能登の人殺し」というのがある。ひどい言われ方だが、なんとなく雰囲気は伝わると思う。

とはいっても毎年の住みやすい県、ベスト3はいつも北陸三県が占めているし、先輩や奥さん達の話を聞くと物価は安いし住みやすいと言っていた。

私たち独身者にとっては、冬は、スキー場が近いのがありがたかった。生まれも育ちも九州の私は、スキーは阿蘇の人口スキー場で一回滑ったきりで全くの素人だ。最初の一年は、今更スキーって感じで乗り気ではなかったが、二年目からせっかく北陸に来たんだからと始めたらハマってしまった。それからは、冬は週末スキー三昧、その頃は週休二日じゃなかったので、土曜の夜のナイタースキーにも行った。街中から1時間足らずでゲレンデにつく好立地はスキー好きにはたまらないだろう。

そのうち、金沢のスキー場では飽き足らず、富山、岐阜高山の流葉スキー場にも泊り込みでよく行った。

おかげさまで、スキーは少しは上手くなった。

春になると、新入社員が入り、毎年金沢にもSS実習にくる。事務系、技術系それぞれ二人ずつ来るが、事務系社員は今でも付き合いがある。SS実習中は、休みに観光地を案内したり、テニスに連れて行ったりした思い出がある。寮会も頻繁にやっていて、ビールを多めに仕入れて普段飲みにも不自由しなかった。

一度、2階のベランダをビヤガーデンに見立てて宴会をしたことがあった。白山寮は犀川の河畔にある為、なんとも風情があった。今は取り壊され、寂しい限りだ。

寮の駐車場は、直帰用に駐車スペースがあったが、何人も車で帰ると止めるところがなく隣の空き家の駐車場に泊めていて、付近に住む自称管理人のお婆さんから随分クレームを言われていた。

ある時、一年下の渡辺君が、地元町内会(中川除町)の運動会の参加依頼を町内会から受けてきた。

どうせ暇なので、寮生全員で参加すると、そのうるさいお婆さん始め地元の人たちの見る目が変わって、随分と寮生のお株が上がった。それ以降は違法駐車は咎められなくなった。なんともいい思い出というか、地元とともにを体現した。

後輩も、一年下が二人、二年下が一人、三年下が一人入り、私は転勤した。通常は、次の後輩がきて入れ替わりに転勤になるので、もう一年金沢にいると思って居たが、潤滑油課がなくなることとなり、それと合わせて減員となって私は、他支店の同期と同じく7月転勤になった。

前に中央訓練所で三年目社員教育があり人事部との面談で、以前、新人役職者教育の部下レポートが問題となっていたらしく、どんなやつかと人事課長に興味を持たれていた。次の支店は大支店がいいか、小さい支店がいいかと聞かれたので、金沢は小さい支店だったので、次は大支店がいいと行ったら、転勤先は東京支店になった。

金沢には、二年と四ヶ月、他の同期と比べると少し短かったが、社会人最初の配属先として多くの思い出が残る地となった。最後の日は、会社の人から見送られることもなく一人で、寮から、バスに乗り、思い出に浸りながら、小松空港から東京へと旅だった。

長くなりましたが、今日は、これ位にして朝風呂に行ってきます。