昨日は、休日の日課、多摩川べりを10km散歩、風呂掃除に洗濯、月一回の睡眠科外来でCPAPのリース料支払い、そのまま、また多摩川方面を多摩川大橋から六郷橋へ散歩、いつもの蕎麦屋で昼のちょい飲みセットでエビスビール1本と地酒をもっきりで二杯飲み、仕上げにもり蕎麦の昼食。昼酒の前は目一杯、腹を空かせてから、一気にビールを流し込む、身体に悪そうだがやめられない。帰って横になってTVを見ていたらいつの間にか気絶していた。目が覚めて気がついたら16時、腹も減っていなかったので、そのままチョコと赤ワインを半分飲んで、いつもの時間に寝たら、2時過ぎに目が覚めた。また休日が一日過ぎてしまった。
今日は、またお楽しみのサウナに行ってくる。
それでは、昨日の続き、
地震の後、盛岡では停電も復旧し、いつもの生活に戻ろうとしていた。ただ三陸沿岸の様子はまだ判らず、心配な日々が続いていた。その間、福島の原発事故の情報がTVで報道されていた。
部下が、釜石の販売店さんの子息と電話がつながり、無事を確認した。すぐに油(燃料)が欲しいということで、ローリーを派遣することになり、ローリーと一緒に釜石に入ることになった。販売店さんの本社は市街地の中心にあり津波被害で壊滅、郊外の店が津波被害を免れ営業しているという。
その日以降、三陸沿岸への支援活動が開始された。
まず、仙台から支援物資がトラックと運転手付きで派遣された。積まれた物資を三陸の販売店ごとに配送を開始した。数回でその物資は配送し終わって、トラックは帰って行った。その後、別のトラックを借りて、自分たちで物資や灯油等の燃料を運んだ。また宮古の販売店さんでSSが水に浸かり、計量機が使えないお店があり、手押しポンプで地下タンクの燃料を汲み上げているお店があった。その給油の手伝いに毎日、宮古に行った。宮古の隣の田老のSSは周りの家が全く流されて、街は瓦礫の山で、見ると戦後の焼け野原の写真とそっくりだった。数年後、田老を訪れると周囲の様子は一変しSSも移転していた。毎日、宮古を訪問していると段々、様子も落ち着いてきて、いよいよ通常の異動を再開するとの指示が出た。二年間の短い盛岡生活も終わりを告げようとしていた。もう二度とこの地に戻って来ることはないと思っていたがそうでもなかった。震災後、もう一度大きな余震(震度5程度)がありまたマンションのエレベーターが止まった。マンションの高層階に住むと地震後大変なことがわかったが最近の地震でも同じ事がおこった。思えば震災の時も12階で今も12階だった。
四月の半ばに広島へ異動した。盛岡の前任者の福地さんは副支店長からアポロサービスの本社へ異動し、また入れ替わりとなった。広島には、前の勤務時に自宅を購入していたのでいずれはそこに住まなければならないが、妻が教育環境が悪いと反対していた。その家は、貸していたが、そのまま借り手に買ってもらいたかったが、「ノー」と言われた。その後、その家はなかなか買い手がつかず苦労した。
広島でのお話は、また明日。