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ブログ五十日目、やっと五十日達成。

昨日は、休日の日課、多摩川べりを10km散歩、風呂掃除に洗濯、月一回の睡眠科外来でCPAPのリース料支払い、そのまま、また多摩川方面を多摩川大橋から六郷橋へ散歩、いつもの蕎麦屋で昼のちょい飲みセットでエビスビール1本と地酒をもっきりで二杯飲み、仕上げにもり蕎麦の昼食。昼酒の前は目一杯、腹を空かせてから、一気にビールを流し込む、身体に悪そうだがやめられない。帰って横になってTVを見ていたらいつの間にか気絶していた。目が覚めて気がついたら16時、腹も減っていなかったので、そのままチョコと赤ワインを半分飲んで、いつもの時間に寝たら、2時過ぎに目が覚めた。また休日が一日過ぎてしまった。

今日は、またお楽しみのサウナに行ってくる。

それでは、昨日の続き、

地震の後、盛岡では停電も復旧し、いつもの生活に戻ろうとしていた。ただ三陸沿岸の様子はまだ判らず、心配な日々が続いていた。その間、福島の原発事故の情報がTVで報道されていた。

部下が、釜石の販売店さんの子息と電話がつながり、無事を確認した。すぐに油(燃料)が欲しいということで、ローリーを派遣することになり、ローリーと一緒に釜石に入ることになった。販売店さんの本社は市街地の中心にあり津波被害で壊滅、郊外の店が津波被害を免れ営業しているという。

その日以降、三陸沿岸への支援活動が開始された。

まず、仙台から支援物資がトラックと運転手付きで派遣された。積まれた物資を三陸の販売店ごとに配送を開始した。数回でその物資は配送し終わって、トラックは帰って行った。その後、別のトラックを借りて、自分たちで物資や灯油等の燃料を運んだ。また宮古の販売店さんでSSが水に浸かり、計量機が使えないお店があり、手押しポンプで地下タンクの燃料を汲み上げているお店があった。その給油の手伝いに毎日、宮古に行った。宮古の隣の田老のSSは周りの家が全く流されて、街は瓦礫の山で、見ると戦後の焼け野原の写真とそっくりだった。数年後、田老を訪れると周囲の様子は一変しSSも移転していた。毎日、宮古を訪問していると段々、様子も落ち着いてきて、いよいよ通常の異動を再開するとの指示が出た。二年間の短い盛岡生活も終わりを告げようとしていた。もう二度とこの地に戻って来ることはないと思っていたがそうでもなかった。震災後、もう一度大きな余震(震度5程度)がありまたマンションのエレベーターが止まった。マンションの高層階に住むと地震後大変なことがわかったが最近の地震でも同じ事がおこった。思えば震災の時も12階で今も12階だった。

四月の半ばに広島へ異動した。盛岡の前任者の福地さんは副支店長からアポロサービスの本社へ異動し、また入れ替わりとなった。広島には、前の勤務時に自宅を購入していたのでいずれはそこに住まなければならないが、妻が教育環境が悪いと反対していた。その家は、貸していたが、そのまま借り手に買ってもらいたかったが、「ノー」と言われた。その後、その家はなかなか買い手がつかず苦労した。

広島でのお話は、また明日。

 

 

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ブログ四十九日目、週末は季節の変わり目、衣替えをしよう

この週末は、雨と共に寒波が南下し都会でも本格的に秋が深まって来るようだ

さて、地震発生後の続き、

私は、地震発生時、高速道路を運転中だったことは書いたが、すぐに事務所へ連絡し、部下へ販売店さんの無事と被害の状況を確認させた。地震の発生は、3時前だったので、まだ明るく、停電しても電話はかけられた。殆どの販売店さんに連絡が取れたが、三陸沿岸のお店には全く電話がつながらない。当時は丁度、主要な販売店店主は支店長と出光会の旅行で沖縄に行っており、仙台空港に帰って来るときに地震と遭遇した、津波が滑走路に押し寄せ、飛行機は那覇に引き返して行った。沖縄にいる販売店主とは連絡がついた、支店長は、すぐに関空に飛んで、大阪の親戚経由で横浜の自宅に戻り、そこから自分の車を運転して仙台に帰ってきた。すごい行動力だ。地震の翌々日には仙台に戻って来ていた。

三陸の販売店さんへは翌日も電話したが一向に繋がらない、津波が押し寄せたことは知ったが、全く現地の情報が入らない。まさかあのような状況とは夢にも思わなかった。

翌日の夜には、盛岡の市内の電気は復旧した。TVを点けても同じコマーシャルばかりで現地の状況は伝えられなかった。当時、盛岡の販売一課では、NO2の高浜君が新任役職者研修で東京、若手の安念君が千葉の姉ヶ崎に研修中、同期の長谷川君がお父さんの不幸で帰郷中で三人がいなかった。残ったのは私と三人の部下と全農担当の先輩の五人。

高浜君は帰りの新幹線で被災し、新幹線が止まり途中で降ろされたそうだ。近くの避難所で一夜を過ごしたらしい。翌日仙台に向かった。安念君は内房線で被災し丁度目の前でコスモ石油の爆発を目にしたそうだ。そのまま姉ヶ崎に引き返して中央訓練所に泊まったそうだ。

一応、部下の安全は確認できた。それからの救援活動については、また明日。

 

 

 

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ブログ四十八日目、一昨日位から、気温がグッと下がってきた

一昨日ぐらいから、最高気温が20℃近辺、最低気温が15℃位と、先日の盛岡並に下がって来ました。いつの間にかもう秋も深まり、気が付かないうちに冬になりそうです。

昨日は、パワハラ問題のもう一人の相手方へ調査結果を通知、今回はパワハラの認定はしなかったものの、人間関係、コミュニケーション不順の状態は、甚だしいものがあると痛感した。何かいい方法がないかと模索しているが、効果的な方法が見つからない。地道に少しずつ気付いた事から変えていくことが大切だと思った。

それでは、盛岡の最終章、

二月に異動の発表があった、すでに統括支店がなくなり、営業所体制となることは決まっていた。本社直轄体制となる。

三月に入り、支店の送別ゴルフが終われば、販売店さんに挨拶をして転勤だと思っていたらあの地震だ。その時は、高速道路を秋田に向かって走っており、地震と思ったら、道の端の雪が崩れ出した。大分大きな地震、それも非常に長いと思ったが、そのまま走っていた。秋田道に入り、標識はしきりに一般道に出ることを指示してくるが、行けるところまで行こうと思った。結局秋田まで高速道を走って一般道に出たら停電で信号は止まり、お巡りさんが交通整理をしていた。目的地まで何とか辿り着き、御焼香(山二の部長さんの親族の葬儀に行ったのだった)を済ませると、一般道で盛岡に帰った。当然のごとく停電で信号も止まり、道の周りは真っ暗で何も見えない。兎に角、早く帰りたいと思い、信号の止まった一般道を飛ばしていった。横から出てくる車がなくて助かった。いつもは2時間近くかかる道のりが1時間ちょっとで帰りついた。盛岡の街中も真っ暗で、マンションのエレベーターも止まっていた。丁度、息子がインフルエンザで高熱を出していて、家族は岩手医科大学の外来に行って留守だった、地震で家の中は結構散らかっており、手探りで移動した。ガラスなどを踏まなくてよかった。しばらくして家族が戻ってきて全員の無事を確認した。盛岡では地震の揺れは大きかったが(震度6弱)被害は殆どなかった、停電のため他の地区の状況は全く入らず、その夜はそのまま休んだ。それから暫く地震後の対応が始まる。その内容はまた明日。

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ブログ四十七日目、今朝も2時前にベッドをでた

昨日も、午前午後とTeams会議と研修で殆どの時間を取られた。今週は、何とも慌ただしい週となりそうだ。

在宅勤務を週二日していると、週三日の出勤で伝票チェックやらの出社しなくてはできない仕事を出社時集中してやるので、Teams等の会議、研修がとても煩わしく感じる。これらのものは、在宅勤務中に限る、というか早く捺印、承認業務を全て電子化したい。

さて、今日は盛岡勤務の2年目のお話、1年間は祭りやゴルフ、お酒のお付き合い等、仕事以外(いやそれが仕事か)で忙しくあっという間に過ぎてしまった。出光には子会社とちがって本当に優秀な部下がそれも二人(この二人を役職にする事が私のミッションだった)いて、課長は仕事は任せて、祭りやゴルフに勤しむことができた。

まだ、さいたまにいた頃、月一回の役職者会議で支店に行っていた。転勤が発表された後、いつも隣に座っている松本支店長をしている先輩にサテライトオフィスは良いよと言われていた。盛岡に来てみるとやっぱり気分がいい。何てったって上司がいないし、それは精神的に楽だった。でもしょっ中、東北支店長から携帯に電話がかかってきた。よっぽど信用されていなかったのかも知れない。

いよいよ2年目、これから何をしようかと思っていると、販売部から不採算のセルフSSを締めろと矢の催促だった。

この世界、販売量が命、売ってナンボの世界だが、採算性第一の本社方針だった。前任者はSSを作る方に忙しく、思ったように売れないセルフSSが結構あった。結局、二年間で閉めたSSは6店、月間2千klは販売量を減らした。その分、営業委託SSの会社の赤字は減った。作って間もないSSも閉鎖し、今ではコンビニに成っている。

青森の小鹿さんと揉めたのは、不採算SSを一括貸与にして欲しいとのことで、要は貸与料を安くしてくれれば採算が合うとの社長の算段だったようだ。

支店長は不採算のSSを中核店が抱え込むことに反対で、こちらも同意してその方向で話を進めたが、これが社長の逆鱗に触れてヘソを曲げてしまった。それ以来、盛岡には来ないと宣言されてしまった。この関係は転勤するまで続いた。

また、少し癖のある盛岡の老舗販売店主がいて、販売店子息教育経験者で56年入社、奥さんは元秘書室で店主の秘書をしていたらしく、出光社内の話をよく出して来る人で、気位の高い人だった。昔、他の販売店が近くにSSを出したので怒って他社マークのSSを出して、今も二枚看板でやっている。また、そちらの仕切り価格が安いと仕切りに言ってくる。

ある時、携帯に電話がかかってきて、「燃料の仕切り価格が高い何とかしろ」という。担当者に聞いてみたが毎月しっかりと値決めしているし、その必要はないという。その旨回答した所、月末の商品代支払いを勝手に差し引き入金してきた。

これには参ったが、社長本人と話すため、アポを取ろうとしたが、出張と称して逃げ回っていた。自宅前で待っていたが帰ってこない、自宅前で張り込むとは近所迷惑で警察に訴えるぞとまで言われた。

この件の最終決着は、支店長の判断で何らかの価格対応することになった。支店では悪いのは、私ということになっていると当時の副支店長(販売部で一緒だった先輩)に聞かされた。元上司である販売部次長に相談してみろとアドバイスされたので、一度電話した。この人が何らかの動きをしてくれたのだろう、首の皮一つ繋がったみたいだ。もうこの時には私の転勤は決まっていたのだろう。

そうこうしているうちに、三月十一日を迎えることになる。

そのお話はまた明日。

 

 

 

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ブログ四十六日目、最近リモート会議が多過ぎ

最近は、Teams等のリモート会議・研修が気軽にできるので、会議・打合せが返って多く成ってしまった様な気がする。

気がついたら、スケジューラーは、会議の予定で詰まっているという感じだ。

では、今日も昨日の続きを行ってみよう。

東北と言えば三大祭り、青森ねぶた、秋田竿燈、仙台七夕の三つだが、北東北ではねぶたと竿燈に盛岡のさんさ踊りが加わる。九州出身だと東北の祭りはあまり馴染みがないが、やっぱりすごい。特に青森のねぶたは、その規模、集客力たるや全国でも有数の祭りと言える。

ここで、東北支店販売一課の使命として、祭りのアテンド、宿の手配という重要な仕事がある。

とにかく、会社のお偉いさんを小鹿さんや山二の西村さんが呼ぶものだから、こちらの手配が大変。以前は、青森の県庁前SSを観客席にしていたが、今はSSはないので桟敷席を手配しているのだろう、宿の手配がもっと大変で青森アポロに頼んでいたが、取れなかったら切腹もので気が気ではなかった。秋田は、山二さんがホテルから桟敷席、会食までセットしてくれるので、心配はなかった。

夏のこの時期は、販売一課長はお祭り課長と言われるように、祭り関係にばかり気をとられていた。8月はこの青森のねぶたにはじまり、月末は岩手の「イーハトーブトライアル」秋田大曲の花火大会とイベントずくめであまり本業に勤しんだ記憶がない。

ゴルフの回数も販売子会社と比べると格段に多くなった。山二さんや工藤さんとのコンペや店主さん達とのゴルフが多くなり、さすがに下手では格好がつかないので、芹沢信雄のDVDを買って毎朝素振りの練習をした。やっぱり努力をすると結果は出るもので、ドライバーの飛距離は伸びたし、スコアも100近くになった。最後には、山二さんのコンペで優勝した。今使っているキャデイバックは、その時の副賞だ。

こんな楽しいことばかりでは終わらないのが、人生だ。

たった2年しかいなかったのに、最後の一年は、最初の一年とは全く反対の不運な一年となった。

その話は、また明日。

 

 

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ブログ四十五日目、今朝も12時半に目が覚めた

この所、9時前に寝ると気がつくと12時前後に目が覚める。昼間眠くなるのが困る

さて、次の赴任地は、岩手県は盛岡市、初めての東北勤務で、九州生まれの私も妻も初めての経験だ。

東北支店は販売一課と二課に分かれ東北地方を北と南に分けて管轄している。北が一課で南が二課だ。販売一課は元の盛岡支店の後を引き継いでいる。秋田には大手の山二、青森には、小鹿産業を持つ、重要なエリアだ。

当時、販売部次長だった元上司の田中さんの配慮だと思う。有難いことだ。

埼玉アポロを後にする時、送別会では三年間の苦労を思い出して思わず涙が出た。次の盛岡ではどんな試練が待っているやら、と思って赴任した。

四月の着任だったが、盛岡にはまだ雪が残り、最高気温も10℃に届かなかった。今まで金沢、東京、広島、大阪、さいたまと転勤してきたが、ひときわ田舎の雰囲気が強く感じられた。盛岡の人口は30万人ほどだ。岩手県はよく広さは四国に匹敵すると言われるが、実際はもっと小さく、東京、神奈川、埼玉、千葉を一緒にした位とのことだ。そこに120万人程の人が住んでいる。川崎市の人口より少ない。

元々、東北新幹線は盛岡終着だった(赴任時は八戸終着、退任時は新青森)し、秋田新幹線との分岐も盛岡である、北東北の玄関口と言える。広いので県南、県北、三陸、どこに行くのにも遠い。青森、秋田に行くにも2時間かかる。随分と車に乗る時間が長くなった。でも幸い課長になって運転することは減った。2年間の赴任期間だったが、その間、東北大震災には会ったし、いろんな経験をさせてもらった。その話はまた明日。

では、朝散歩に行ってきます。

 

 

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ブログ四十四日目、川崎に戻ってきた

昨日、午後から川崎に戻ってきたが、やっぱり暑い。

盛岡は朝晩は、もう15℃を下回る最低気温を記録し、もはや秋の気配だが、関東地区はまだ残暑が厳しい。

昨日盛岡では、霧雨の降る朝で、その中で散歩、午前中は小型船舶の更新講習、auからUQモバイルへの契約変更、午後の新幹線で帰郷した。

川崎の単身社宅で夕食後、風呂に入って、ビールを飲んでいたら、500ml一本では物足らず、2本目を開けたら、また記憶が無くなっていました。最近、お酒が弱くなった様な気がする。

それでは、埼玉での思い出の続き、

SSでの油外収益がそのSSの黒字化の成否を分ける事になるので、日々目標達成に向け取り組んでいる。

その為のメンバー教育にも力を入れている。

SSTという教育機関に販社グループでは、SSでの油外収益向上研修を委託していた。

研修所の様な所を借りて、階層別に標準作業手順、所謂油外販売の販売手順を暗記し、皆んな同じ手順でお勧めできるようにする。朝から、深夜まで缶詰の研修で、ある意味、秘密の特訓的な研修で終いには精神的に追い詰められる研修で、非日常感が満載の研修だった。研修後は、SSそれぞれに目標が課され、一気に油外収益が上がる、但し暫くすると元に戻るということを繰り返していた。カンフル剤としての効果は随分あったが、今はどうなっているのだろうか、研修費も百万単位で掛かっていたと思うので今は続けられなくなっていると思う。

今では販売子会社の組織も変わっており、昔の仲間もいろんなところで活躍している人もいれば、不正で会社をやめた人間もいる、都合で辞めた人間もいるのは、寂しい限りだ。

そんなこんなで、埼玉アポロの三年間がすぎて、次の転勤が発表された。東北支店の販売一課だった。東北の北三県を担当する事になった。

それではそのお話はまた明日。

 

 

 

 

 

 

 

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ブログ四十三日目、昨日は大沢誉志幸のライブに行ってきました

昨日は、1円iPhoneを買いに行って、夜は妻と大沢誉志幸のライブに行ってきた。

家から歩いて5分位のカフェバーで客数は20人弱のライブだった。大沢誉志幸と言えば、会社入ったばかりの頃、流行っていた。メジャーデビュー40周年らしい。デビュー前から楽曲を他のアーティストに提供していて印税がしっかり入ってきていた様だ。

自身の代表曲は「そして僕は途方に暮れる」、35年前の曲で、今まで33人のアーティストがカバーしているそうで、その度印税が入ってくるので、印税生活を送っているそうだ。

だから、観客の多いライブはやらなくて、コロナ禍でもこじんまりとしたライブを続けているらしい。

オリジナルの「そして僕は途方に暮れる」を生で聞けて、久しぶりに感動した。

ライブの後は妻と近くの料理屋で食事したが、冷酒を二杯飲んだら今朝は少し頭が重い。

今日は、小型船舶免許の講習会に出て、またコジマに行ってauからUQモバイルに変更してもらって、13時50分の新幹線で帰る。充実した週末だった。

それでは、今日はこれ位にして、朝散歩に行ってきます。

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ブログ四十二日目、昨日から盛岡帰省

昨日から、盛岡帰省中、こちらでしかできないことをやって家族との会話、交流を図る。

今日の予定は、携帯電話を替えにコジマに行き、夜は妻と大沢誉志幸のライブに行く、明日は小型船舶免許の更新講習に行き、またコジマに行って13時50分発の新幹線で川崎に帰る予定。

さて今日のお話は、

弁護士先生のお話、最初は弁護士なんて話もしたこと無いし、なんか不安な気持ちで相談していた、案の定、相談内容、どうしたいのかこちらの意思がはっきりしないので、よく先生に怒られた。何せ毎月の様に相談する事件が起こるので、初めの頃は、浦和の弁護士事務所に行くのがいやだった。ある時、SSのマネジャーを一緒に連れて行ったら、先生の質問口調が非常に優しくなり、私も横で聞いていて非常に楽なので、それからは、トラブル対象SSのマネジャーを連れて行くようにした。最後には、弁護士事務所通いが苦にならなくなった。

本当にお世話になった。それ以来、弁護士にお世話になることは発生していない。

もう一つ弁護士案件を書いておく。

あるSSで車が放置された事件、ある日ある時、ある人間が当該SSにオイル交換か、車検か何かで車をSSに預けて行ったのだが、本人との連絡が取れなくなった。どうやら警察に捕まって刑務所に入っているらしい。何度か連絡を取ったが、車を取りに来る気配はなく相当月日が立っていたらしい。SSでは場所は取るし、撤去しようにも他人の物を勝手に処分することはできずに困っていた。これも弁護士先生にお願いし、車の処分・撤去をお願いした。一度若い先生と同行し、現地を確認した。裁判所に競売申請をして係官が現地に現物を見にきた、曰く、幾らかの価格をつけるので落札して欲しい。その後は、勝手に処分しても構わない。こうして、不法に置き去りにされていた車の処分も完了した。

それでは、今日はこの位にして朝散歩に行ってきます。

 

 

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ブログ四十一日目、昨日の地震は凄かった

昨日は、本社で打ち合わせ後、ビール・ワインをご馳走になって10時頃には、気を失って寝床につきました。

いきなり、酷い揺れで起こされたと思ったら、自分でも寝ぼけているのかと思うほど、夢の中の様な気分だった。

朝起きてから、部屋の中を見るといろんなものが散乱していました。

夜中に安否確認のメールが来たが、安否を回答する質問が出てこないので、後で安否確認の機能がなくて意味しないのに気がついた。平松くんから電話が掛かってきたので、発信し直して貰えばよかったが、改めて朝6時頃、自分で確認メールを発信しようと思った、自分で操作するのは初めてでなんとも発信までに時間がかかってしまった。

6時20分頃発信して全員の確認ができたのが、9時過ぎで最後の一人は、休暇の様で、会社の携帯は繋がらず、私用の携帯でも繋がらなかった。

休暇中は会社の携帯に出ない社員が多く、時代が変わってきたものだ。休暇時の緊急連絡がつく仕組みを考える必要があると思った。

今朝は、地震対応であたふたして、帰省の新幹線に間に合わず一本遅らせる事になった、また小型船舶免許更新のための講習があるのに、免許証を忘れてしまった。

盛岡でマンションの抵当権抹消の申請を出したついでにコジマ電気でスマホを見ていたら声をかけられ、iPhone seを1円で勧められた。明日、早速、切り替えに行こうと思う。

今日は色々あったので、思い出話はやめておこう。

ではまた明日。

 

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