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ブログ五十四日目、今朝も風が冷たい

今朝も窓を開けたら冷たい風が、顔に当たった。一週間前とは随分と季節が変わって来たものだ。

それでは、昨日の続き、

久慈の基地には、独身・単身用と家族用の二つの社宅が用意されている。当然、単身の私は、単身用の社宅に入るものと考えていたが、いっぱいで入れないと言う。広い家族用に一人で入ることになった。単身用は、1Kのバストイレ付き、共用のトレーニングスペースにサウナ付きのシャワールームもある。随分と贅沢な作りだ。それに対して家族用は、3LDK、80平米。盛岡の自宅マンションよりも広い。元は田んぼ(今も裏は田んぼ)で一階は湿気が多く、特に北側はカビが生えやすい。寒冷地らしく、各部屋にFF式ファンヒーターが設置されている。冬は灯油を相当使いそうだ。単身用は、ボイラーでお湯を沸かしてセントラルヒーテイングしていた。燃料代は会社持ちだった。後にお金をかけて部屋毎の使用メーターをつけた。

広い部屋に一人ぼっちで、部屋をあまらしていたが、娘が盛岡でプラプラしており、また妻と仲が良くなくなっていたので、久慈で暮らせと呼び寄せた。部屋を一つ与えて、暫く一緒に住んでいた。盛岡の通信制高校に通いながら、久慈のスーパーでバイトしていた。食事も作ってくれて私は助かっていた。たまに地元のお店にも連れて行って、結構楽しい暮らしをしていた。5年間は・・・・

それでは、今日はこの位で。

 

 

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ブログ五十三日目、昨日は久しぶりに会社の人と飲んだ

昨日は、1年半ぶりに会社の人と夜、近くのお店で飲んだ。少し飲み過ぎて二日酔いの兆候で頭が重い。

それでは、昨日の続き、

久慈は、NHKの朝の連続TV小説「あまちゃん」のロケ地で全国に知られるようになった。着任時、宿泊したホテルに出演者やスタッフが泊まっていて、朝食時や夜に出演者を見かけることができた。会社の人で最終回にエキストラで出演した人もいた。久慈の秋祭りには「のん」ちゃんが二度も来た。

久慈といえば、海の幸、山の幸、食べ物が美味しい所で、初夏のうに(瓶詰め)、秋の松茸(食べ放題)、冬のいくら・毛蟹。都会では滅多に食べられないものを毎年季節ごとに味わう事ができた。これを目当てに東京からお客さんがいっぱいきた。その度にお相伴に預かり本当にありがたかった。

それでは、仕事のお話、復興工事の二年間は来客・見学の人たちの受け入れを遠慮していたようだが、地上部の工事が完了し、見学者の受け入れも本格化した。そのアテンドも総務課の大きな仕事だ。

震災後、津波が基地を襲う貴重な映像が残っており、これを見学者に見せて、復興工事の状況を説明した。

まず、地下備蓄の基本的な説明すると、地下備蓄は主に北欧の国で行われており、地下の岩盤をくり抜いて、そこに原油を貯蔵する、と言ってもそのままでは、岩盤から染み出してしまうので、水封式と言って地下水の力を利用する。分かりやすく言うと、原油の周りを地下水が囲んで漏れないようにしている。地下岩盤の周りは地下水で満たされており、毎日2千tの地下水が湧き、その湧水を浄化し海に排水するとともに、半分は地下に戻す。このシステムが地上設備で行われる。地上部の1000KLタンクは原油タンクではなく原油を僅かに含んだ湧水が入っている。地上部の油は、ボイラー燃料のA重油のみだ。

こんなことは、石油会社に勤めていても知っている人は、殆どいない。

全国に地下備蓄基地は3箇所あり、日本地下石油備蓄が操業委託を国・JOGMECから受けている。

久慈の他は、愛媛県の菊間、鹿児島県の串木野だ。それぞれ太陽石油、東燃ゼネラル(今はENEOS)が操業している。

日本地下石油備蓄は、石油元売り三社と非鉄金属会社五社の合弁企業で、入社以来初めて他社の人と一緒に仕事をする経験ができて非常によかった。ちなみに社長は、経産省のOBと筆頭株主の太陽石油からの出向者が交互に務めていた。取締役は、総務部長(太陽)三基地の所長(出光、太陽、東燃)、監査役は非鉄会社の出向者が交互に務めていた。後に副所長になって月一回の幹部会に参加するようになって初めて他の会社の人たちと話ができるようになった。いい経験になった。

それでは、今日はこの位にしておこう。

 

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ブログ五十二日目、昨日は寒かった

昨日は、在宅で一日家に居たけど、朝から外は寒かった、急に冷えると出て来るのが、寒暖差アレルギー、鼻から水のような鼻水とクシャミが出る。

在宅勤務だと本当に動かないので、運動不足を感じる。自分の性に合わないと思う。今日は出勤、出勤が楽しみになるとは思はなかった。

では、昨日の続き、

4月異動がなかったので、もしやと思って居たら、7月異動の電話が販売部長からかかってきた。家族と近くなってよかったねと言われた。会社に岩手の転勤先は他にはなく、販売部としての配慮だと思う、しかし久慈と盛岡の距離は100kmはあり、そんなに近くはないのだが、九州よりは近くなった。

転勤先は岩手県久慈市の日本地下石油備蓄だった。2年前の震災時、広島の総務課長だった柴崎さんが久慈の総務課長で着任し、広島の総務関係の引き継ぎをした。その久慈の備蓄基地の総務課長として今度は自分が着任することになった。何ともご縁を感じる転勤だった。柴崎さんはそのまませりあがりで副所長に栄転だった。ここの事務系副所長は総務課長から上がる人が多い。以前、盛岡に居たときの副支店長、佐藤さんもそうだった。今も、ちょくちょく久慈に通っているらしい。

久慈の備蓄基地は、2年前の震災で地上部が皆んな流されて壊滅していた。ただし肝心の原油は、地下に保管されているため、無事だった。

この2年で、地上設備は復旧し、元通りの新品備蓄基地となっていた。

私が着任した時は、高台の自家発等の非常設備を建設し、地下タンクと結ぶ立坑を掘っていた。復旧・復興工事最後の一年だった。

まだまだ、震災の傷跡が残る三陸を目の当たりにした。神戸の震災後の復興とは本当に違う事がわかった。

久慈での長い六年間が始まる、その続きはまた明日。

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ブログ五十一日目、いきなり冷え込んできた

今朝は、気温15℃、前回帰省した盛岡並みの気温、最高気温も20℃に届かない見込み、やっと季節相応の気温になってきた、というよりは、いきなり冬に突入するんじゃないかと心配だ。

昨日の日曜は、朝の散歩は横浜方面に子安まで行って帰って13km、少し長めの散歩だった。午前中にトイレ掃除を済ませて、お昼に大好きなサウナへ、高温、低温サウナを交互に入って、水風呂と椅子で休憩を繰り返し3回入る。今流行りの整った感覚がたまらない。いろんな風呂を全部入って身体を洗ってから上がる。風呂上がりのビールは欠かせない。枝豆をつまみにスーパードライを一気に流し込み、今日はハイボールを追加し、最後は八海山でしめる。しっかりよっぱらいちょっと休憩ののち、またサウナと風呂で15時半位にサウナを出た。帰ってきて、昨日の残りの赤ワインを半分飲んだら、また気を失っていた。目が覚めたら19時頃だった。寝てた間に録画した大河ドラマを見て、目がさえて来たので、今度はウイスキーをストレイト、ロック、ハイボールで飲んで、22時に寝た。サウナに入ると本当によく眠れる。

さっき起きたのは2時半だ。

それでは昨日の続き。

広島での職務は、西日本オフィサポートマネジャーという役職だ。統括支店体制がなくなり、総務課が無くなったものだから、販売部の人事的な担当窓口として臨時に設置された。

担当は、中四国、九州の営業所で拠点は、広島、担当は、高松、福岡、鹿児島に至る。担当店には月一度は顔を出すようにした。まず人を知る事が仕事だった。その他は決まった仕事はあまりない。

家族は、娘が中学2年生、息子は小学校に転入した。娘は新設の中学に転入したが、馴染めなかったようだ、暫くして学校に行きたくないと言い出した。所謂、登校拒否の状態だ。盛岡のような田舎と違って広島は言葉もそうだが荒っぽいところがある、息子もあまり面白くなかったようだ。

娘は精神のバランスを壊していたようで、精神科へ保護入院させた。暫く様子を見て退院させたが、広島には居たくないようだ。色々考えた末、盛岡に返すのが良いと思って、会社の上司と相談した。盛岡の前居たマンションの一室が丁度売り出されていたのでそれを買った。私は、便利の良い福岡に転勤させてもらい、単身赴任の生活が始まった。

娘は、盛岡に帰ってから一度は落ち着いた。

二度目の広島は6ヶ月の短い滞在だったがあまり良いことはなかった。

福岡の単身生活は、よく言う、札チョン、博チョンで単身には最高な所だった。社宅は博多駅前の会社から5分のマンションでどこへ行くにも近い最高のロケーションだった。

担当エリアは、福岡と鹿児島で鹿児島には月一回通っていた。

営業所体制は上司は居ないし、所長さんも私も気楽に仕事ができた。1年半という本当に短い間の勤務でもう少し長くいたかった。マラソンからトライアスロン、ダイビングも資格をとり、いろんなことにチャレンジした。充実した単身生活だった。

そうこうしているうちに、盛岡では娘が高校受験に失敗し、私立の学校に入学した、その後、痴漢のような者に会ってまた学校に行かなくなった。そのまま学校は退学した。

妻から帰ってきて欲しいと言われたが、そうそう福岡から帰ってこられるわけがない。上司に相談すると次の年の7月に転勤の辞令が出た。

その話はまた明日。

 

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ブログ五十日目、やっと五十日達成。

昨日は、休日の日課、多摩川べりを10km散歩、風呂掃除に洗濯、月一回の睡眠科外来でCPAPのリース料支払い、そのまま、また多摩川方面を多摩川大橋から六郷橋へ散歩、いつもの蕎麦屋で昼のちょい飲みセットでエビスビール1本と地酒をもっきりで二杯飲み、仕上げにもり蕎麦の昼食。昼酒の前は目一杯、腹を空かせてから、一気にビールを流し込む、身体に悪そうだがやめられない。帰って横になってTVを見ていたらいつの間にか気絶していた。目が覚めて気がついたら16時、腹も減っていなかったので、そのままチョコと赤ワインを半分飲んで、いつもの時間に寝たら、2時過ぎに目が覚めた。また休日が一日過ぎてしまった。

今日は、またお楽しみのサウナに行ってくる。

それでは、昨日の続き、

地震の後、盛岡では停電も復旧し、いつもの生活に戻ろうとしていた。ただ三陸沿岸の様子はまだ判らず、心配な日々が続いていた。その間、福島の原発事故の情報がTVで報道されていた。

部下が、釜石の販売店さんの子息と電話がつながり、無事を確認した。すぐに油(燃料)が欲しいということで、ローリーを派遣することになり、ローリーと一緒に釜石に入ることになった。販売店さんの本社は市街地の中心にあり津波被害で壊滅、郊外の店が津波被害を免れ営業しているという。

その日以降、三陸沿岸への支援活動が開始された。

まず、仙台から支援物資がトラックと運転手付きで派遣された。積まれた物資を三陸の販売店ごとに配送を開始した。数回でその物資は配送し終わって、トラックは帰って行った。その後、別のトラックを借りて、自分たちで物資や灯油等の燃料を運んだ。また宮古の販売店さんでSSが水に浸かり、計量機が使えないお店があり、手押しポンプで地下タンクの燃料を汲み上げているお店があった。その給油の手伝いに毎日、宮古に行った。宮古の隣の田老のSSは周りの家が全く流されて、街は瓦礫の山で、見ると戦後の焼け野原の写真とそっくりだった。数年後、田老を訪れると周囲の様子は一変しSSも移転していた。毎日、宮古を訪問していると段々、様子も落ち着いてきて、いよいよ通常の異動を再開するとの指示が出た。二年間の短い盛岡生活も終わりを告げようとしていた。もう二度とこの地に戻って来ることはないと思っていたがそうでもなかった。震災後、もう一度大きな余震(震度5程度)がありまたマンションのエレベーターが止まった。マンションの高層階に住むと地震後大変なことがわかったが最近の地震でも同じ事がおこった。思えば震災の時も12階で今も12階だった。

四月の半ばに広島へ異動した。盛岡の前任者の福地さんは副支店長からアポロサービスの本社へ異動し、また入れ替わりとなった。広島には、前の勤務時に自宅を購入していたのでいずれはそこに住まなければならないが、妻が教育環境が悪いと反対していた。その家は、貸していたが、そのまま借り手に買ってもらいたかったが、「ノー」と言われた。その後、その家はなかなか買い手がつかず苦労した。

広島でのお話は、また明日。

 

 

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ブログ四十九日目、週末は季節の変わり目、衣替えをしよう

この週末は、雨と共に寒波が南下し都会でも本格的に秋が深まって来るようだ

さて、地震発生後の続き、

私は、地震発生時、高速道路を運転中だったことは書いたが、すぐに事務所へ連絡し、部下へ販売店さんの無事と被害の状況を確認させた。地震の発生は、3時前だったので、まだ明るく、停電しても電話はかけられた。殆どの販売店さんに連絡が取れたが、三陸沿岸のお店には全く電話がつながらない。当時は丁度、主要な販売店店主は支店長と出光会の旅行で沖縄に行っており、仙台空港に帰って来るときに地震と遭遇した、津波が滑走路に押し寄せ、飛行機は那覇に引き返して行った。沖縄にいる販売店主とは連絡がついた、支店長は、すぐに関空に飛んで、大阪の親戚経由で横浜の自宅に戻り、そこから自分の車を運転して仙台に帰ってきた。すごい行動力だ。地震の翌々日には仙台に戻って来ていた。

三陸の販売店さんへは翌日も電話したが一向に繋がらない、津波が押し寄せたことは知ったが、全く現地の情報が入らない。まさかあのような状況とは夢にも思わなかった。

翌日の夜には、盛岡の市内の電気は復旧した。TVを点けても同じコマーシャルばかりで現地の状況は伝えられなかった。当時、盛岡の販売一課では、NO2の高浜君が新任役職者研修で東京、若手の安念君が千葉の姉ヶ崎に研修中、同期の長谷川君がお父さんの不幸で帰郷中で三人がいなかった。残ったのは私と三人の部下と全農担当の先輩の五人。

高浜君は帰りの新幹線で被災し、新幹線が止まり途中で降ろされたそうだ。近くの避難所で一夜を過ごしたらしい。翌日仙台に向かった。安念君は内房線で被災し丁度目の前でコスモ石油の爆発を目にしたそうだ。そのまま姉ヶ崎に引き返して中央訓練所に泊まったそうだ。

一応、部下の安全は確認できた。それからの救援活動については、また明日。

 

 

 

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ブログ四十八日目、一昨日位から、気温がグッと下がってきた

一昨日ぐらいから、最高気温が20℃近辺、最低気温が15℃位と、先日の盛岡並に下がって来ました。いつの間にかもう秋も深まり、気が付かないうちに冬になりそうです。

昨日は、パワハラ問題のもう一人の相手方へ調査結果を通知、今回はパワハラの認定はしなかったものの、人間関係、コミュニケーション不順の状態は、甚だしいものがあると痛感した。何かいい方法がないかと模索しているが、効果的な方法が見つからない。地道に少しずつ気付いた事から変えていくことが大切だと思った。

それでは、盛岡の最終章、

二月に異動の発表があった、すでに統括支店がなくなり、営業所体制となることは決まっていた。本社直轄体制となる。

三月に入り、支店の送別ゴルフが終われば、販売店さんに挨拶をして転勤だと思っていたらあの地震だ。その時は、高速道路を秋田に向かって走っており、地震と思ったら、道の端の雪が崩れ出した。大分大きな地震、それも非常に長いと思ったが、そのまま走っていた。秋田道に入り、標識はしきりに一般道に出ることを指示してくるが、行けるところまで行こうと思った。結局秋田まで高速道を走って一般道に出たら停電で信号は止まり、お巡りさんが交通整理をしていた。目的地まで何とか辿り着き、御焼香(山二の部長さんの親族の葬儀に行ったのだった)を済ませると、一般道で盛岡に帰った。当然のごとく停電で信号も止まり、道の周りは真っ暗で何も見えない。兎に角、早く帰りたいと思い、信号の止まった一般道を飛ばしていった。横から出てくる車がなくて助かった。いつもは2時間近くかかる道のりが1時間ちょっとで帰りついた。盛岡の街中も真っ暗で、マンションのエレベーターも止まっていた。丁度、息子がインフルエンザで高熱を出していて、家族は岩手医科大学の外来に行って留守だった、地震で家の中は結構散らかっており、手探りで移動した。ガラスなどを踏まなくてよかった。しばらくして家族が戻ってきて全員の無事を確認した。盛岡では地震の揺れは大きかったが(震度6弱)被害は殆どなかった、停電のため他の地区の状況は全く入らず、その夜はそのまま休んだ。それから暫く地震後の対応が始まる。その内容はまた明日。

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ブログ四十七日目、今朝も2時前にベッドをでた

昨日も、午前午後とTeams会議と研修で殆どの時間を取られた。今週は、何とも慌ただしい週となりそうだ。

在宅勤務を週二日していると、週三日の出勤で伝票チェックやらの出社しなくてはできない仕事を出社時集中してやるので、Teams等の会議、研修がとても煩わしく感じる。これらのものは、在宅勤務中に限る、というか早く捺印、承認業務を全て電子化したい。

さて、今日は盛岡勤務の2年目のお話、1年間は祭りやゴルフ、お酒のお付き合い等、仕事以外(いやそれが仕事か)で忙しくあっという間に過ぎてしまった。出光には子会社とちがって本当に優秀な部下がそれも二人(この二人を役職にする事が私のミッションだった)いて、課長は仕事は任せて、祭りやゴルフに勤しむことができた。

まだ、さいたまにいた頃、月一回の役職者会議で支店に行っていた。転勤が発表された後、いつも隣に座っている松本支店長をしている先輩にサテライトオフィスは良いよと言われていた。盛岡に来てみるとやっぱり気分がいい。何てったって上司がいないし、それは精神的に楽だった。でもしょっ中、東北支店長から携帯に電話がかかってきた。よっぽど信用されていなかったのかも知れない。

いよいよ2年目、これから何をしようかと思っていると、販売部から不採算のセルフSSを締めろと矢の催促だった。

この世界、販売量が命、売ってナンボの世界だが、採算性第一の本社方針だった。前任者はSSを作る方に忙しく、思ったように売れないセルフSSが結構あった。結局、二年間で閉めたSSは6店、月間2千klは販売量を減らした。その分、営業委託SSの会社の赤字は減った。作って間もないSSも閉鎖し、今ではコンビニに成っている。

青森の小鹿さんと揉めたのは、不採算SSを一括貸与にして欲しいとのことで、要は貸与料を安くしてくれれば採算が合うとの社長の算段だったようだ。

支店長は不採算のSSを中核店が抱え込むことに反対で、こちらも同意してその方向で話を進めたが、これが社長の逆鱗に触れてヘソを曲げてしまった。それ以来、盛岡には来ないと宣言されてしまった。この関係は転勤するまで続いた。

また、少し癖のある盛岡の老舗販売店主がいて、販売店子息教育経験者で56年入社、奥さんは元秘書室で店主の秘書をしていたらしく、出光社内の話をよく出して来る人で、気位の高い人だった。昔、他の販売店が近くにSSを出したので怒って他社マークのSSを出して、今も二枚看板でやっている。また、そちらの仕切り価格が安いと仕切りに言ってくる。

ある時、携帯に電話がかかってきて、「燃料の仕切り価格が高い何とかしろ」という。担当者に聞いてみたが毎月しっかりと値決めしているし、その必要はないという。その旨回答した所、月末の商品代支払いを勝手に差し引き入金してきた。

これには参ったが、社長本人と話すため、アポを取ろうとしたが、出張と称して逃げ回っていた。自宅前で待っていたが帰ってこない、自宅前で張り込むとは近所迷惑で警察に訴えるぞとまで言われた。

この件の最終決着は、支店長の判断で何らかの価格対応することになった。支店では悪いのは、私ということになっていると当時の副支店長(販売部で一緒だった先輩)に聞かされた。元上司である販売部次長に相談してみろとアドバイスされたので、一度電話した。この人が何らかの動きをしてくれたのだろう、首の皮一つ繋がったみたいだ。もうこの時には私の転勤は決まっていたのだろう。

そうこうしているうちに、三月十一日を迎えることになる。

そのお話はまた明日。

 

 

 

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ブログ四十六日目、最近リモート会議が多過ぎ

最近は、Teams等のリモート会議・研修が気軽にできるので、会議・打合せが返って多く成ってしまった様な気がする。

気がついたら、スケジューラーは、会議の予定で詰まっているという感じだ。

では、今日も昨日の続きを行ってみよう。

東北と言えば三大祭り、青森ねぶた、秋田竿燈、仙台七夕の三つだが、北東北ではねぶたと竿燈に盛岡のさんさ踊りが加わる。九州出身だと東北の祭りはあまり馴染みがないが、やっぱりすごい。特に青森のねぶたは、その規模、集客力たるや全国でも有数の祭りと言える。

ここで、東北支店販売一課の使命として、祭りのアテンド、宿の手配という重要な仕事がある。

とにかく、会社のお偉いさんを小鹿さんや山二の西村さんが呼ぶものだから、こちらの手配が大変。以前は、青森の県庁前SSを観客席にしていたが、今はSSはないので桟敷席を手配しているのだろう、宿の手配がもっと大変で青森アポロに頼んでいたが、取れなかったら切腹もので気が気ではなかった。秋田は、山二さんがホテルから桟敷席、会食までセットしてくれるので、心配はなかった。

夏のこの時期は、販売一課長はお祭り課長と言われるように、祭り関係にばかり気をとられていた。8月はこの青森のねぶたにはじまり、月末は岩手の「イーハトーブトライアル」秋田大曲の花火大会とイベントずくめであまり本業に勤しんだ記憶がない。

ゴルフの回数も販売子会社と比べると格段に多くなった。山二さんや工藤さんとのコンペや店主さん達とのゴルフが多くなり、さすがに下手では格好がつかないので、芹沢信雄のDVDを買って毎朝素振りの練習をした。やっぱり努力をすると結果は出るもので、ドライバーの飛距離は伸びたし、スコアも100近くになった。最後には、山二さんのコンペで優勝した。今使っているキャデイバックは、その時の副賞だ。

こんな楽しいことばかりでは終わらないのが、人生だ。

たった2年しかいなかったのに、最後の一年は、最初の一年とは全く反対の不運な一年となった。

その話は、また明日。

 

 

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ブログ四十五日目、今朝も12時半に目が覚めた

この所、9時前に寝ると気がつくと12時前後に目が覚める。昼間眠くなるのが困る

さて、次の赴任地は、岩手県は盛岡市、初めての東北勤務で、九州生まれの私も妻も初めての経験だ。

東北支店は販売一課と二課に分かれ東北地方を北と南に分けて管轄している。北が一課で南が二課だ。販売一課は元の盛岡支店の後を引き継いでいる。秋田には大手の山二、青森には、小鹿産業を持つ、重要なエリアだ。

当時、販売部次長だった元上司の田中さんの配慮だと思う。有難いことだ。

埼玉アポロを後にする時、送別会では三年間の苦労を思い出して思わず涙が出た。次の盛岡ではどんな試練が待っているやら、と思って赴任した。

四月の着任だったが、盛岡にはまだ雪が残り、最高気温も10℃に届かなかった。今まで金沢、東京、広島、大阪、さいたまと転勤してきたが、ひときわ田舎の雰囲気が強く感じられた。盛岡の人口は30万人ほどだ。岩手県はよく広さは四国に匹敵すると言われるが、実際はもっと小さく、東京、神奈川、埼玉、千葉を一緒にした位とのことだ。そこに120万人程の人が住んでいる。川崎市の人口より少ない。

元々、東北新幹線は盛岡終着だった(赴任時は八戸終着、退任時は新青森)し、秋田新幹線との分岐も盛岡である、北東北の玄関口と言える。広いので県南、県北、三陸、どこに行くのにも遠い。青森、秋田に行くにも2時間かかる。随分と車に乗る時間が長くなった。でも幸い課長になって運転することは減った。2年間の赴任期間だったが、その間、東北大震災には会ったし、いろんな経験をさせてもらった。その話はまた明日。

では、朝散歩に行ってきます。