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ブログ十三日目、今朝も目覚めた。継続中

今朝も、3時前に起きて、ブログ開始。

今日も行ってみよう

バイク、バイトときて、あとの大学生活は、友人達か。

大学に入って、クラス分けがあった。第一外国語で括られた学級でその単位で、行動する事が多かったので、自然とその中で友人関係ができてくる。すぐに4〜5人のグループができて下宿を往復したり、酒をんだり、遊びに行ったり、いろんな事があった。後半はクラス以外にも交流が出来て交友関係が広がった。今でも年賀状交換だけだが、みんな元気だろうか。同窓会はやっているのだろうか。卒業して直ぐに、椿山荘で熊大同窓会があった。その頃は、参加者はオッサンばかりで、若者は近づき憎かったが、今は逆の立場で、是非参加してみたい。

大学時代は、24時間使って、稼いで、遊んで、ちょっと勉強して、充実した毎日だった。

4年になって就職活動が始まる。会社訪問が本格的になる前、7月初旬に大阪・東京の会社の先輩を訪問した。何となく商社を志望していたので、日商岩井他、幾つか回ったが、熊大の先輩はあまりいない。会社に入ってのちに商社の人たちと仕事する機会ができたが、自分はメーカーでよかったと思った。

金融関係の採用活動が早く、証券会社から早々と内定をもらった。二度程、大阪に呼ばれて半ば接待を受けたが、最終的に断って今の会社に入った、やはり、金融は向いているとは思わず正解だったと思う。

証券以外で内定が早かった今の会社に入社を決めた。一次面接は熊本出張所の事務所で行い、福岡支店の総務課長が面接官だった。二次面接は、福岡支店で面接、面接官のトップは人事部次長、当時の教育課長と目が会い印象的だった。福岡の支店は大名にあり、面接試験の帰りに天神をぶらぶらした時、綺麗な女性が多いとびっくりした記憶がある。田舎者だった。

この会社には私だけが内定をもらい。会社そのものはあまり知らなかったが、まあいいだろうと入社を決めた。まだ8月初旬だったと思う。それからは、偶に会社説明会を覗く程度だったが、キャノン販売に行ったらすぐ内定をもらった、随分と人が欲しいみたいだった。今、親戚(妻の従兄弟)が勤めている。

就職も決まり、授業も週一限とくれば後はバッチリ稼いで、遊びまくるに決まっている。バイト、バイクに明け暮れた。最後に自動車免許もとって中古車も手に入れた。

楽しい大学生活も終わりに近づき、3月に卒業式を迎えた。

3月もギリギリまで熊本にいて、そのまま会社の入社式に向かったと思う。

さて今日はこれ位にして、朝散歩に行ってきます。

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ブログ十二日目、今日もやります。

昨日は、娘が盛岡から帰ってきて、夕食食べさせろとLINEが入り、待ち合わせの約束、ところが、携帯無くしたとLINE電話が入り、交番いけと指示した。

今時は、iPhone無くしてもipadでiphoneの居場所がわかると言うことで、交番からビルのお客様センターに電話してもらって、なんとか携帯は手元に戻ってきたらしい。今は便利な機能があっていいな。俺もandoroidからiphoneに替えようかな。

では、今日も大学時代にタイムスリップ!

バイクの為にバイトを始め、それからはあまりお金に苦労はしなかった。食べ物もバイト先の賄いで食べられるので、特にひもじい想いはした事がない。

街中のラーメン屋さんの時は、店長が面白い人で、人間関係がよくて結構楽しめた。バイトを紹介しろという同期を入れたりして知り合いも多くなった。深夜労働と言うのが玉に傷で、翌日一限目が授業の時は敬遠した。それと豚骨ラーメン特有のあの匂いが体に染みつくので、仕事が終わってそのまま布団には入りたくない。下宿の簡易シャワーを浴びて寝た。一年くらいして、本店で人が足りないので、移ってくれないかと依頼された。こちらは営業時間が10時から9時までなので、いつも平日は、6時から9時まで、週末は朝から晩までバイトできる。夕食も食べれる。こちらの店の出前は、一般家庭も多く、宮崎美子さんの実家にも出前した、県立病院の手術室にも出前したこともある。

一日の出前のピークは正午過ぎと、夕飯時、配達が集中する。配達が終わると器を下げに回る、下げた器を洗って一息つき食事にありつける。

ここにも、知り合いや後輩(中学時代の後輩に再会した)を紹介して楽しくやっていた。仕事終わりにファミレスに連れてもらったりもした。

また、鶴屋百貨店の一階の鈴屋という女性服専門店で2年間バイトした。商品の出し入れや、値札タグ付け等の作業をした。このバイトも結構面白くて、友達も入れて楽しくやっていた。正月の仕事は、お雑煮作りだったのを覚えている。

あと、倉庫でタバコの葉を乾燥させるため年末に保管して、年初に積み出すバイトも二年に渡ってやった。初めは、タバコの袋を担ぐと肩が擦れて痛くなったが慣れてくると要領がわかってくるし、肉体労働で、昼飯がうまく感じた。結構給料もよく、稼げたと思う。

大学時代、バイトでいくら稼いだろう、バイク5台分、百万円以上は軽く稼いだろうか。

結構、人間関係が良いとこらが多くて幸いだった、店長にも可愛がられて、何度か家にも招待したもらった。いい思い出になっている。あの人たちは今どうしたいるだろう。

それでは、今朝はこれくらいにして朝散歩に行ってきます。

 

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ブログ十一日目、まだ続いている

カスタマイズを変更して、背景を入れたら、字が見えずらくなった。字を白抜きにしたい。

今朝も大学時代の思い出行ってみよう。

大学時代は、24時間をフルに使って、バイク、バイト、友人との付き合いに活用してきた。

バイクは、阿蘇には良く行った。俵山、阿蘇有料道路、大観峰、授業が休講になると、俵山に行っていた。仲間とツーリングで雲仙・島原、天草西海岸まで行ったこともある。やまなみハイウェイを別府まで往復したことや、宮崎高千穂にも行った。一人旅で天草上島・下島、鹿児島の長島に渡り、阿久根市から南下して枕崎、開門岳、錦江湾を渡って、佐多岬まで行って、野宿した。夜は流星群が綺麗だった。あまり眠れず、翌日、居眠り運転でトラックに追突した。怪我はかすり傷程度だったが、バイクはハンドルが曲がっていた。そのまま何とかバイク屋までたどりついたが、何とも辛いひとり旅になった。

二台目のバイク ヤマハRD250を買った熊本オートセンターは熊本東バイパスにあり、そこのツーリングチームに入れてもらって、月一度のツーリングに行った。今でも元店長の藤本さんとは年賀状を交わしている。大学のバイク生活は、この店を抜きには語れない。思い出が一杯あって書ききれない。よく行ったのはやっぱり阿蘇、俵山・大観峰のコースはよく行ったね。

この店で、次に特性カウルをつけたホンダCBX400F、限定解除の講習会を受けて、大型免許挑戦、見事合格してKawasaki Z750FXを買った。ハンドルを替えて、集合マフラーにしてステップ替えて、リアサス替えて、結構お金も注ぎ込んだ。

もうそろそろ1時間となるので、朝の散歩に出かけます。

 

 

 

 

 

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ブログ十日目、まだまだ続きます。

今朝は、1時過ぎに目が覚めました。

この頃、寝つきが良くて8時頃には、寝入ってしまい気がついて目が覚めると12時と言う事がよくある。歳を取ってあまり長く眠れなくなったようだ。おかげでブログを書く時間を確保できる。

それでは昨日の続き行ってみよう。

ボート部の活動拠点は市の外れにある江津湖、艇庫が有った。そこまで行く足がなかったので、原付バイクを買った。

ヤマハのTY50、トライアルバイクだ。これが私のバイク人生の始まり。それから中型免許を取り、ヤマハRD250、HONDA CBX400F、ここで、大型限定解除に挑戦し5回目で合格、念願のナナハンライダーになった。早速、KawasakiZ750FX、大学最後のバイクはKawasaki GPZ750、社会人になってもバイクを続け、千葉で実習中、当時バイク屋のメッカである上野でHONDA CB750ボルドールを買った。それから千歳船橋の寮にいた時にKawasaki Z1000M kⅡついに念願のオーバー750、これが最後のバイクで大宮の社宅に入るまで、転勤時も持ち歩いた。妻からは金食い虫と嫌がられたが、ちょっとしたビンテージバイクでレストアしたら120万円くらいでは売れるが、買った時の価格と同じ位の80万円で売った。このお金が、後に2台の車に変わり、今は何も残っていない。また小さいバイクでも買おうかと思う。

さて、大学時代に戻ると、部活は、やはり体力的に持たないし、腰は痛くなるし、夏の球磨川合宿ごろにリタイヤした。ここでも根性なしが出たみたいだ。

部活を辞めて時間に余裕ができると、授業の空き時間はバイクで阿蘇までツーリング、バイクを買って維持するためにアルバイトする毎日、バイトは単発からラーメン屋、タバコの倉庫への積み込みやらと色々やった。三年間ラーメン屋のバイトを続け、食費も随分浮かせてもらった。最初は、友人に紹介してもらった繁華街の店で出前の仕事、夕方6時から朝の5時くらいまでの労働で時給は確か350円位だったと思う、バス代が出たのと、夕食、朝食にラーメンが食べられたのが最大のメリットだった。そのうちラーメンの作り方や餃子の焼き方も覚えた。

それから、神水の本店で配達の人手が足りないということで、店を移動した。ここはバイクで配達のため免許が必要だった。まあ、アパートから遠いので、バイクがないと通えない。ここでも食費を浮かせて貰いながら随分稼がせてもらった。友達、後輩も紹介してバイト仲間も増えた。福岡勤務のとき懐かしくて、繁華街のお店を尋ねたが、移転していた。店は立派になり、社長の娘さんが店長をしていた。社長はまだ健在とのことだったが、今はどうだろうか。

このバイトでは長時間ラーメンのスープの蒸気を浴びているので、仕事のあとは風呂に入らないと眠れず、風呂付きのアパートの引っ越した。趣味のバイクとそのためのバイトで生活様式も変わってきた。快適な大学生活を送る事ができた。

今日は、これ位にしておこう。

 

 

 

 

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ブログ九日目

昨日からウオーキングを再開しました。

昨日は、朝から洗濯、風呂掃除、昼前から散歩に出かけ、多摩川沿いをウオーキング後、サウナ、風呂上がりの昼飲み、お昼寝という怠惰な生活。また来週の日曜日は、supの  スクールに申し込んだので少しは運動できると思います。

今朝は、駅まで、短めのウオーキング。

今日は、一日在宅勤務、何となくじっとしているので運動不足となりがちです。

では、今日も私の人生振り返ってみましょう。

熊本大学入学前に住む所を決めるために、同級生の二人と下宿先を探しに熊本に行きました。

大学周辺には、多くの下宿、間借り、アパートがありましたが、大学の裏門の先の龍山荘というアパート(四畳半の間借り、風呂なしトイレ共同)に決めました。

入学式後、教養部のクラス分けがあり、同級生の友人ができました。今でも年賀状のやり取りがある人もいますが、ほどんどこの30年間会った事がありません。

龍山荘には、簡易のコインシャワーがありましたが、基本は銭湯でした。ラーメン屋のバイトの帰りにお風呂に入りたかったので、二年目には次の下宿を探しました。少し離れたところに、風呂がついた部屋を見つけましたが、一部屋を二分した部屋で、風呂付きの部屋は狭かったので、広い方を借りました。ここも1年間で出て、川の向こう渡鹿町のアパート2kバストイレ付きを先輩から紹介してもらい二年間済みました。ここは大学からは離れていますが、静かで入り浸っていたバイクやにも近く便利なところにありました。

大学生活は、まず必要単位を数大くとることを第一に取り組みました。1年時には法学部の専門課程は2限のみでしたが、そのうちの選択科目の基礎法学が不可でしたが、何と必修科目の民法総則が優上でした。この作戦で必要最小限の単位取得で卒業しました。

また、友達に法曹業界を目指す人がいたので、志法会というサークルに入っており、後に私も別に司法試験を受けることは全く考えていなかったが、仲間が欲しかったので、入ってみた。

部活と言えば、これも中途半端な話だが、ボート部の人にキャンパスで声をかけられなぜか部室について行ってしまった。キツいトレーニングについていけるわけもなくずるずると足が遠のき、いつの間にかやめていた。同じ高校の二人が最後まで続けており、これもまた尊敬に値する。

本当に私はスポーツ、運動ということに縁がなかった。

今、健康に目覚めたのが不思議でならない。

まあ、今日はこれくらいにしておきます。

 

 

 

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ブログ八日目、順調に継続

昨日は、一日、家で過ごした。

朝から掃除、あとは、YouTubeとNetflix三昧。夜に娘が来ると言うので、一緒に裏の鮨正で夕食、娘と一緒に食事ができるのは羨ましがられる。私にとっては可愛い娘だ。千葉でキャデイをしている。休暇で以前バイトしていた阿蘇のホテルに遊びに行ったらしい。今朝、阿蘇から熊本、新幹線で博多、福岡から羽田に着いたらしい。ここで洗濯して、夜行バスで盛岡に帰った。8日にまた来ると言っていた。

それでは、昨日の続き行ってみよう。

小倉高校に何とか補欠入学したものの、最初の実力試験は450人中何と445番、田舎中学の実力はこんなものか。最終的には、事務系120番位にはなったものの、マラソン大会を最後に出発と言った感じで、先が思いやられるスタートだった。

1年生は男子クラス、同じ中学の松山君と、今同じ会社で同期の八田君と同クラスだった。

放課後、松山君と教室にいたら応援団の人達に囲まれ、部室に拉致され、入部することになった。私はついていけず、途中で退部、松山君は最後は応援団旗を挙げていた。大したものだ。尊敬に値する。松山君は大学も同じだが付き合いは、ない。

そう言えば、入学早々、彦山の少年の家で合宿訓練が有った。応援団が指導して全校の応援の訓練みたいなもの、また躾の訓練のようなものだった。内容はあまり良く覚えていない。

高校の授業は、前日に予習をすることを義務付けられて、毎晩遅くまで勉強したことを覚えている。ただ授業について行くのがやっとだった。特に英語は不得意だった。文法が全くの苦手だった。それでも試験ごとに成績は数十番単位で上がって行ったので、気分はよかった。やれば成果が出ることを実感した。

授業は、1時間目の前にもう一時間授業があり、6時間目の後にもう一時間授業が有った。一日に8時間授業が有った。朝、日の出前に家を出てから日が沈んでから帰宅する毎日だった。冬には朝その前に朝稽古(柔道または剣道)があり、汽車がないので、友人のお父さんに送ってもらっていた。一日の殆どを学校で過ごし、家では予習と食事と寝るだけの何とも暗い高校生活を過ごした。

三年間男子クラス、三年は事務系だったので男女クラスを期待していたが、何せ元々女子が少なく、2クラスの男子クラスの一つに入った。

小倉高校は歴史のある学校(昔は小倉中学)で、高校野球で全国制覇を二回やっている。学帽の二本線はその証と先生が言っていた。

今でも地元では名門で地元企業には、先輩後輩が大勢いるようだ。採用活動で地元の大学を訪問し、面談した先生に小倉高校出身と言ったら何期だと聞かれた。その先生も倉校出身らしく名簿で調べてくれた。

倉校には制服が三種類あり、夏・冬服と春・秋に霜降りの学生服がありそれを見ると一発で倉校生とわかる。

高校生活あまり良い記憶はないが、受験勉強はなんとか乗り切り、合格圏内の熊本大学を受験した。

父の友人の息子が熊本大学工学部にいたので合格発表を見てくれるということだったので、待っていたが何も連絡がない。また失敗したかと高校受験の時の思い出が頭をよぎった。仕方なく街に遊びに行くとパチンコ屋で同じ熊大を受験した友人に会い、熊大落ちたらしいと言うと、「お前受かっっているよ」と新聞の合格者名を見せてくれた。驚いたが、助かった気持ちだった。それから学校に報告に行った。まずは一安心、浪人をせずにすんだ。

また、今朝も長くなったのでこの位にして、お風呂に行ってきます。

 

 

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ブログ七日目、1週間続けられました。

今日もアキレス腱痛が続いているのでジョギングはお休み

なんとか明日は、ウオーキング ができるようになればいいなと思っています。その後はサウナと昼飲みです。

それでは、今日の話題は、自分です。

私の幼少期は、もうあまり覚えていないのですが、白銀町の長屋暮らしから父の国鉄の官舎(原町)に幼稚園の頃に引っ越しました。ここで中学1年生まで過ごします。父の職場、市街地にも近く便利なところでした。幼稚園は近くのお寺がやっていた木町幼稚園、一年保育のように記憶しています。

小学校は、清水小学校、低学年では授業について行くのが辛かったと思います。成績はあまり良くなかったと思います。

中学校は、家のすぐ近くの篠崎中学校に入学、その後、父が小倉南区の横代に会社の斡旋で土地を買い家を建てることになりました。ここに今でも母が住んでいます。築44年になりますが、まだまだ住むには不自由はないようです。

篠崎中学の時は、成績もそんなに良くなくて20番くらいだったと思います。そのころは、工業高専に行ってそのまま就職してもいいなと思っており、大学に行くことはあまり考えていませんでした。

中学二年生の時に新設の横代中学(企救中学から分校)に転校しました。ここが何と今までの品の良い地域とはちょっと違い軽くカルチャーショックを受けました。

ただ、周りのレベルが下がると言うことは、相対的に自分の地位が上がり、成績はいきなり三番に上昇し二年間下がることはありませんでした。その代わり、上の二人は、追い抜くことはできませんでした。柄の悪い奴らからいじめられたりもしました。柄になく初めて部活(サッカー部)にも入りました。あまり良い記憶はなかったですが、いろいろなことを経験しました。

そんな感じで勉強はできた(できると勘違いしていた)ので高校は北九州市の名門小倉高校を受験しました。横代中学から受験したのは4名、成績では私の下が一名合格しています。

高校受験でも一つ、因縁があり、自分とその成績は下の男と勇んで合格発表を見に行ったのですが、なんと合格番号が無い。ショックは大きく何とも言えない気持ちで帰りました。母に報告し、学校に報告し、一年浪人して予備校に通おうと考えていました。翌日はゆっくり街で遊ぼうかと思っていると学校から連絡があり、小倉高校から合格したので、来て欲しいと連絡が会ったとのことでした。

小倉高校に訪問し当時の校長先生から、合格おめでとうと直接言われました。まあ考えてみれば、補欠入学ということでしょう。まずは名門高校に滑り込む事ができました。ここから三年間の暗い倉校生活が始まります。

だいぶ長くなったので、今朝はこれくらいにして、お風呂に行ってきます。

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ブログ六日目今日もやるぞ

今朝は雨、足も痛いし、今週は休息の週

昨日は、同期入社のU君が会社を訪ねてきた。
先月、インドから帰国、インドでは新型コロナに感染し大変だったようだ。
また、帰国後の仕事も大役を仰せつかったようで、あと1年半大きな仕事に没頭するようだ。

さて、昨日の続き、

弟は、弁護士に借金の任意整理をお願いし、あとは粛々と働いて借金を返すだけなのだが、そうはいかなかったようだ。母の悩みはつきなかったようだ。本人も母も私にはそんなことは言わない。何か言われるのが嫌なのだろう。興味本位で聞くのも悪いので、自分からは知らないふりをしている。妻が一度、里帰りして訪れた時に、東京から戻って家の2階に住み着いている事がわかった、私には言わないでと母から言われたと言う事だった。その内、故郷で就職先を見つけて現在に至る。彼も晩婚ながら結婚し子供も一人できて(遅くできた子で一人っこ、溺愛している)普通の生活をしていると思いきや、暫くして別居した。弟が嫁さんに手をあげたらしい。別居してから別れたかどうかはわからないが、子供は可愛いらしく月一回は嫁さんが連れてくるそうだ。甥っ子にはあった事がないが、家には写真が溢れている。娘が遊びに行った時に一度会ったようだ。
まあ、人の家庭に口出しするのは性に合わないのでやめておく。自分の家庭のことにも口出しして貰いたくないから。
弟は今は真面目に勤め人になっているようだし、毎日、夜は実家で夕飯を食べ、その残りを弁当箱に詰めて、翌日の昼食にしていた。なんと慎ましい生活か。自分も見習わなくてはいけないのか。まあ無理だろう。家は広いし、母と一緒に暮らしてもらえれば安心なのだが、どうして家賃を払ってアパートを借りているんかわからない。妻子の関係からなのだろう。私は母の遺産は放棄すると言っているので、母が亡くなったら実家には弟が住めばいい。その時から、実家に帰ることもなくなり、故郷との関係も無くなってしまうのだろう。18歳までしか故郷には住んでいなかったので、故郷にあまり親しみは感じない。
我が家も私と同じで自分が死んだら、父がたの親戚とは付き合いがなくなるのだろう。それも仕方がない。今でもほとんど付き合いがない。九州と東北の距離はなんとも遠い。私の家族にとって故郷は岩手県盛岡市、それでいい。
弟の話に戻るが、はたから見ると決して成功しているとは見えないが、子供もいるし、老後はどうするかはわからないが何とかすると思う、それも人生。人のことに口出しはやめておこう。弟の家族と顔を合わせるのは、母の葬式の時かもしれない。それでいいと思う。

そろそろ弟の話は、これくらいにして朝風呂に入ってきます。

 

 

 

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ブログ五日目まだまだ続けるぞ

今朝もアキレス腱痛でジョギングはお休み

一週間様子を見て病院へ行こう。

昨日は、仕事の帰りにサウナに寄って、軽くビールと日本酒、いつもよりぐっすり眠れたかも。平日サウナの習慣も取り入れてみよう。

さあ今日は、弟の話を書こう。
弟は、私の三学年下、昭和40年生まれ。小さい頃は可愛かったので、みんなに可愛がられていて羨ましかった。私の早生れに対して10月生まれなので、知能の発達もそれ相応によく賢そうだったのも羨ましかった。結構恵まれて育ったのがその後の人生に影響したのかもしれない。

小さい頃は、順調に育っており、地元の小学校、中学校を出て高校は工業高専を出た。ラグビー部だったので、モテていたようだ。就職口も悪くなかったようだが、大手にはいかず、友達と一緒に大分の名も無い中小企業に就職した。案の定、経営が思わしくなく数年で退職、東京に出た。その頃は、バブル期で若い男一人だったら、暮らすのに苦労はなく、返ってバイトを掛け持ちして羽振りはよかったようだ。月収が手取りで50万あったこともあったようだ。それだけあれば生活も豪勢になる。新橋の老舗焼肉屋徳寿のホール係をしていたようだが、その時、運悪く狂牛病が流行り出した。焼肉屋は敬遠され経営は苦しく、給料の遅配があったようだ。生活レベルも上がっており、資金繰りも厳しくなり、カードローンからサラ金、果ては闇金に手を出し、首が回らなくなった。母に泣きつき、借金を払って貰うことになったが、母から私に金を預けるので払って欲しいとのことだった。当時、大阪から新幹線で東京に行って、弟と闇金周りをした。最初は錦糸町の業者で事務所を構えていた。店長らしき人が、お兄さんがわざわざはらいにきてくれたので、二度と借金に手を出すなとマトモなことを行って、少し利子分を負けてくれたのはびっくりした。一緒に完済済書をくれた。次は渋谷だったと思う。マンションの一室が事務所になっていた。中には二人いたが、一人はいかにもヤクザらしい人間だった。支払いをして完済済書を出してくれと頼んだら、拒否された。証拠らしきものが残るのが嫌だったのか、話をしようとすると弟が揉めたくないと止めるので、そのまま帰った。次は渋谷パルコ前で待ち合わせ(スカウトらしき人間がひっきりなしに若い女性に声をかけていた)、無店舗の闇金で電話をすると受け子みたいな人間がお金を持ってくるらしい。百貨店の階段でお金をわたし、受け子はメモ帳の切れ端に確かに受領しましたと記入し、渡してくれた。最後は、サラ金等の整理のために、弁護士事務所へ、今でこそ、過払金請求のコマーシャルがTVで一般的に流れているが、その時はまだあまり知られていなかった。普通のサラ金は弁護士が入ると大人しくなるらしいが、闇金はそうも行かないらしく、会社や親族にも迷惑がかかるので何とか返済したほうが良いということだったので、今回の返済となった。サラ金への残債は2百万円位あるようだが法的整理、最終免責ではなく、任意整理したいとのことだった。弟ながら借りたものはちゃんと返したいといい、大したモノだ、と思ったが、後にそうでもないような事がわかった。一通り、関係先を回ったあと、夕食を食べようということになり、特寿の関係の居酒屋に行くことになった。借金背負った人間に奢らせるわけにはいかないと思ったが、弟がどうしてもご馳走させてくれといって譲らないので、お言葉に甘えることにした。あっという間に最終の新幹線に間に合わなくなったので、弟の家に泊まることにした。家は三軒茶屋にあった、結構便利なところにあり、友達が借りていたところをそのまま借りているようだが、借主はそのままのようでその後、追い出されることとなる。なんと小型犬を飼っていたのは驚きだった。当然無許可である。翌日は朝始発で帰って、そのまま会社に出社した。初めて闇金と言うものを知った、良い経験になったが自分はそんな目に会いたくはないと思った。弟の借金はこれからしばらく続くことになり、それが母の悩みの種となったようだが、その事は私には知らされなかった。

だいぶ長くなったので、前編はこの辺で、明日後編を書きます。

では、今朝もお風呂に行ってきます。

 

 

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ブログ四日目

ブログ四日目、何とか文章を書く習慣が身についてきそうな予感、今日も昨日に引き続き行ってみよう。

今日は、母のお話

母は、私が物心ついた時には、家に居て専業主婦、というか家で洋裁の内職をしていた。知り合いが雑誌等のデザインを持ってきて、それに型紙を作って、持ってきた生地を切って、立体に仕上げる、いわゆるオートクチュールか。家にいると仕事の邪魔になるのか、近くの保育園に預けられていた。母が恋しくてよく泣いていたような気がする。その頃の家は、平家の借家でオンボロ長屋と言ったものだった。記憶はあまりない。保育園の遠足で競馬場に行った記憶が、かすかにある程度だ。

母は家計をよく助けていたようだ。車の免許をとり、弁当屋の配達や夜間の立ち食い蕎麦屋でも働いていた。私の大学時代の仕送りは母のお陰だと思っている。嫁を貰うならしっかりモノで生活力旺盛な人が良いと思っていた。

父と母は8歳離れていたと思う。多分見合い結婚だと思う。私の歳から逆算して父が33歳、母が25歳のときの子で、長男なので、30歳過ぎての結婚となる。当時としては父は晩婚だったのだろう。20代半ばの若い嫁さんを貰っているのでその点では恵まれていると思う。(私は若い嫁さんを貰えなかったので羨ましい)

母はすごいと思う、酒乱の父とよく一緒にいられたモノだ。一度、家から出で叔父さん叔母さんの家に逃げた事があった。親戚の中立ちで帰ってきたが、離婚でもしていたら私の人生は真っ暗だったと思う。

母は9人兄弟の末っ子と言っていた。男兄弟は三人知っているがみんな亡くなっている。すぐ上の叔父は六男という名前だったので、男は6人いたのかも知れない。その上は三男、一番上は名前を知らない。叔母さんは二人知っているので、女兄弟は三人だろう。これで勘定が合う。母がたの親戚とは子供の頃から行き来があった。よく一人で遊びに行っていた。もう故郷を離れてしばらく経つので、みんな相当歳をとっていると思う。

父も母も末っ子同士の結婚で、父は晩婚、従兄弟達の中では私と弟が一番下の方になる。年下の従姉妹が一人いた。父がたの従兄弟は、昔、父に連れられて行った事があるが、あまり記憶もなく、付き合いも深くない。結婚式に福岡の従兄弟に来てもらったら、受付をしていた妻の弟を見て先生と行ってびっくりしていた。義弟は、従兄弟の息子の高校の担任だったらしい。奇妙な縁もあるモノだ。

随分と話が脱線したが、母は今年で83歳になる。新型コロナの関係でしばらく帰省していない。もうあと何年も生きないと思うが、親孝行はしておかないとと思う。ワクチンも2回打ったので、年末には帰ってみようかと思う。

父が亡くなって、父がたの親戚と付き合いがなくなり、母がなくなれば、母がたの親戚とも関係がなくなると思う。元々、地縁が薄く、地元の知り合いも少ないので、故郷に帰る意味もなく、妻も今の家がいいと言っているので、故郷との関係は薄くなるばかりだ。もう故郷に住むこともないだろう。

だいぶ書き進めてきたので、疲れてきた。ここらで今日は終了します。