カテゴリー
Uncategorized

ブログ二十三日目、三連休終日

昨日は、台風一過の晴天で気持ちも良かったので、サイクリング20km

今日も天気はいいので、SUPで多摩川クルージング予定。

それでは、今日も続きます。

東京支店へは、五人の同期が転入し、元いた同期一人と60年入社は六人と大勢力になった。

その中でも、小倉高校の同期が三人集まり、大先輩の竹内副支店長と後輩のヒガキ石油の娘と五人の倉高出身者で同窓会をした。

東京支店では、販売一課に配属され、外販店、産業用燃料の軽油を担当した。用途が産業用なので、潤滑油課から転勤してきた私も取っ付きやすかった。また軽油の担当という点もジーゼル繋がりで分かりやすかった。

販売一課は隅田課長の元、ベテランから若手まで年齢構成もバランスよく当初から楽しく仕事ができた。ただ、一年で、販売二課の東くんと一緒に販売企画課に異動になりちょっと寂しかった。販売企画課では、能登谷さんの元で販売促進を勉強し、揮発油を担当した。

同じ頃、本社販売部から副支店長で野田さんが転勤してこられ、よく副支店長席の前で立たされて指導された。非常に思い出深い。

販売一課に居た頃から、本社販売部との繋がりができて、会議等で説明に行くことが多くなった。軽油担当の時は、販売部販売二課、販売企画課では販売部販売一課と仕事をする機会が増え、顔も広くなった。

二十代半ばで、それもバブル期に東京で過ごすことができ、金沢とは環境が大きく変わり、楽しくも厳しい会社生活が続いていた。

独身寮は荻窪寮といい、SSの二階、その上には社宅があった。所謂、高層化SSだが今は建物は取り壊され、セルフSSとなってる。

白山寮と違い、寮生も多く、寮会も賑やかだった。

最初は大部屋に先輩と二人部屋だったが、しばらくして平成元年入社組が大量に辞めてその余波で独身寮が一人部屋になることになり、大部屋は改装されて個室となった。

世の中は、好景気で採用活動は買い手市場、当社の独身寮が一人部屋になるとは時代が変わっていくのを感じた。

今朝は、これ位で朝散歩に行ってきます。

 

 

 

 

 

 

 

.

カテゴリー
Uncategorized

ブログ二十二日目、昨日はよく寝た

昨日は、台風の前の大雨で散歩はお休み、月一回行かなきゃならない睡眠時無呼吸症の通院後、昼はいつものようにサウナへ行くと、サウナで元上司の山本さんと会い、いつものように一緒に昼飲み、その後、もう一度サウナに入って帰宅、山本さんがサウナ前の椅子で居眠りをして居たので、先に帰ると声をかけて帰った。

家では、また白ワインを開けて、昼飲みの続き、YouTubeを見ながら飲んでいるといつの間にか気を失っていて、目が覚めたのは10時前だった。すぐに二度寝開始、次の起きたのが、朝の四時半、いつもの時間だ。

それでは、今日は金沢での仕事の話をします。

金沢支店の潤滑油課は担当エリアは富山、石川、福井の北陸三県、富山が一番の需要地だが、石川の小松製作所も需要家としては無視できない大手需要家だ。

全国の統轄支店では四国の高松と並び、最も小さい支店だ。潤滑油と一言で行ってもその種類はさまざまで、普通の人はエンジンオイル位しか知らないが、その他、工業用の潤滑油の種類はすごく多い。

大支店の潤滑油課は油担制と言って、潤滑油の種類毎の担当になっているが、小支店ではそうもいかず、金沢では、県担制だった。私は石川県の担当で、油担は陸運・建設、所謂ジーゼルエンジンオイル。

ジーゼルエンジンオイルには粘度指数によって、シングルグレードとマルチグレードに別れる。油は熱いとサラサラ、寒いとドロドロになる。その度合いが少ないのがマルチグレードオイル。モービル1のコマーシャルを思い出してもらうと分かりやすい。始動時や冬場の燃費が良くなる。燃料代の節約になり、コスト削減ができるが、オイルの値段が高い。これを売っていた。

一つの思い出は、JRにこれを売り込んだことだ。でっかい機動車で冬場の起動性の試験をやってそれを全国の技術発表会で発表した。当時のJRでは冬場は機動車のエンジンは止めない、一晩中回しっぱなしだ。一度止めるとエンジンが掛かりにくくなるそうだが、何とも燃料がもったいないことだ。そこでマルチグレードエンジンオイルの紹介となる。私が居た時は、正式採用にはならなかったが、後任者で納入に成功したらしい。少しでも自分の足跡が残せたのは誇らしいことだ。そんなこんなで朝から晩の遅くまで働いていた記憶がある。

それでは、今日はこれ位にして、台風一過の空を見ながら散歩に行ってきます。

 

 

 

カテゴリー
Uncategorized

ブログ二十一日目、今日は台風の一日

外は、これから台風がくるため、風の音が強くなってきた。

今朝は雨で朝散歩ができないので、ブログをゆっくりと書ける。では昨日の続きを始めよう。今日は金沢・北陸についてを書いてみる。

金沢と言えば、言わずと知れた北陸の「小京都」、名所旧跡も多い観光地、背景には能登・加賀の温泉地もあり、他の地域から見ると羨ましいところかもしれない。

初めて、金沢の人に言われたのは、「弁当忘れても傘忘れるな」ということだった。それ程、雨の多い土地だということ。米所と言われる所は、水が豊富=雨が多い。

ご多分に漏れず、北陸も米所=雨が多い。特に冬はこれが雪に変わる。寮母の徳丸千代さん曰く、昭和38年の三八豪雪の時は、2階で寝ていても雪を踏む足音が聞こえたということだ。2mは一晩で積もったということ。おかげで冬は、朝から雪かきが大仕事になる。

北陸は当たり前だが、夏暑くて、冬寒い。典型的な四季がハッキリとした気候である。夏涼しい東北とはちょっと違う。

冬、年末近くになると、「雪お越し」別名「ぶりお越し」と言って、真夜中にいきなり雷が鳴り出し、それを合図に雪が降り始める。その頃から富山湾では、寒鰤が取れ始める、季節の風物詩だ。九州育ちの私にはびっくりしたことを覚えている。

北陸人の人柄を表す言葉に「越中強盗、加賀乞食、越前の詐欺、能登の人殺し」というのがある。ひどい言われ方だが、なんとなく雰囲気は伝わると思う。

とはいっても毎年の住みやすい県、ベスト3はいつも北陸三県が占めているし、先輩や奥さん達の話を聞くと物価は安いし住みやすいと言っていた。

私たち独身者にとっては、冬は、スキー場が近いのがありがたかった。生まれも育ちも九州の私は、スキーは阿蘇の人口スキー場で一回滑ったきりで全くの素人だ。最初の一年は、今更スキーって感じで乗り気ではなかったが、二年目からせっかく北陸に来たんだからと始めたらハマってしまった。それからは、冬は週末スキー三昧、その頃は週休二日じゃなかったので、土曜の夜のナイタースキーにも行った。街中から1時間足らずでゲレンデにつく好立地はスキー好きにはたまらないだろう。

そのうち、金沢のスキー場では飽き足らず、富山、岐阜高山の流葉スキー場にも泊り込みでよく行った。

おかげさまで、スキーは少しは上手くなった。

春になると、新入社員が入り、毎年金沢にもSS実習にくる。事務系、技術系それぞれ二人ずつ来るが、事務系社員は今でも付き合いがある。SS実習中は、休みに観光地を案内したり、テニスに連れて行ったりした思い出がある。寮会も頻繁にやっていて、ビールを多めに仕入れて普段飲みにも不自由しなかった。

一度、2階のベランダをビヤガーデンに見立てて宴会をしたことがあった。白山寮は犀川の河畔にある為、なんとも風情があった。今は取り壊され、寂しい限りだ。

寮の駐車場は、直帰用に駐車スペースがあったが、何人も車で帰ると止めるところがなく隣の空き家の駐車場に泊めていて、付近に住む自称管理人のお婆さんから随分クレームを言われていた。

ある時、一年下の渡辺君が、地元町内会(中川除町)の運動会の参加依頼を町内会から受けてきた。

どうせ暇なので、寮生全員で参加すると、そのうるさいお婆さん始め地元の人たちの見る目が変わって、随分と寮生のお株が上がった。それ以降は違法駐車は咎められなくなった。なんともいい思い出というか、地元とともにを体現した。

後輩も、一年下が二人、二年下が一人、三年下が一人入り、私は転勤した。通常は、次の後輩がきて入れ替わりに転勤になるので、もう一年金沢にいると思って居たが、潤滑油課がなくなることとなり、それと合わせて減員となって私は、他支店の同期と同じく7月転勤になった。

前に中央訓練所で三年目社員教育があり人事部との面談で、以前、新人役職者教育の部下レポートが問題となっていたらしく、どんなやつかと人事課長に興味を持たれていた。次の支店は大支店がいいか、小さい支店がいいかと聞かれたので、金沢は小さい支店だったので、次は大支店がいいと行ったら、転勤先は東京支店になった。

金沢には、二年と四ヶ月、他の同期と比べると少し短かったが、社会人最初の配属先として多くの思い出が残る地となった。最後の日は、会社の人から見送られることもなく一人で、寮から、バスに乗り、思い出に浸りながら、小松空港から東京へと旅だった。

長くなりましたが、今日は、これ位にして朝風呂に行ってきます。

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリー
Uncategorized

ブログ二十日目、今朝も一時前に目が覚めたので早速ブログを書く

この所、蚊が一匹いて、ブログを書いていると足を刺されて気が散る。

昨日は、千葉事業所で高卒の採用試験、優秀そうな生徒さんが千葉にはいるもんだと感動した、今日最終決定するが、一人落とさなければならないのが、非常に残念。

では、今日も始めよう。

金沢支店には、同期が二人いる筈だが、なぜか一人しかいない。メンタルで実家に帰ってしまったようだ。一度戻ったが、結局また実家に逃げ帰り最終的には退職した。なんだかここの生活が不安になってきた。

会社の事務所には、バスでもいけるが、会社の車で直帰した人に同乗させてもらうことが多かった。歩いても、繁華街を素通りして、20分位でたどりつく便利な所だ。

全国見ても、上尾の武蔵野寮や名古屋の鳴海寮みたいに繁華街から遠い寮は少なかった。どこも白山寮のように繁華街から歩いて帰れる寮が多く、寮生には非常にありがたい。

金沢支店の潤滑油課は、課長の平山さん初め、見るからに体のゴツい水澤さん、要領の良さそうな鈴木さん、事務系の先輩、長さんの私の5名だった。元々、長さんと入れ替わる予定だったと思うが、なぜか長さんとは翌年まで一緒だった。

富山出張所に現地駐在の蔵野さんもいた。この人たちと三年弱一緒に仕事をした。

金沢はいい所、住みやすい所だと皆さんの言うが、若い人間にとっては、少し寂しくて物足らない。飲み屋街は大きく数も多いが、若者の遊ぶ所が少なく、風俗街もない(遊郭はあるが、ソープは、加賀温泉まで行かないとない)。仕方なく休みの日には、寮の応接間で駄弁っているか、ビデオを見ているか、皆んなでテニスに行っていた。寮生の付き合いが深くなっていった。本当に一家、兄弟のような関係だった。

仕事は、先輩のアシスタント、同行販売、一人で飛び込みセールス等やったが、何だか面白くなくて会社を辞めようと思っていた。同期の一人も東京で仕事をしたいと会社を辞めた。私は、公務員試験を受けようと思いその前に行政書士の試験を受け合格した。国税専門官の試験を受けようかと思っていたが、受験勉強に挫折し結局諦めた。会社は毎晩遅く、一人で会社に残っていることも多く、俺何やってるんだろうと思うことも多かった。あまり充実した会社生活とは言えなかった。

潤滑油の油担ごとに研修を兼ねた会議がマル教と言って毎年行われていたが、勉強の為と言って大体私が行かされた。最初は行っても何も分からず、怒られることも多く、本社のチーフエンジニアは怖いもんだと思っていた。皆さんからは、どのマル教にも出てくるので、マル教要員と呼ばれていた。まあ、顔が広くなるのはいいことだったと今では思う。

翌年には長さんが転勤になる、この人の家系は、由緒あり、金沢藩の家老職の長家の流れを汲む。この人の名は、長英連といい、男の家族はみんな名前の最後に連の文字がつくという。なんとまあ格好良い名前である。

長さんが居なくなると暫くして、石川県と陸運・建設の担当となった。この頃から仕事が少しはわかるようになってきた。販売店さんとの同行や、本社チーフとの同行もするようになってきた。本社から人が来て時間があると兼六園を案内するのは、私の役目だった。三年間で何度、兼六園に行っただろうか。ガイドさん達の説明は覚えてしまい。ガイド並みの説明ができるようになった。当時の上司の平山さんがあるとき同行で能登を回っているときに、少し時間があり、ここら辺で名所は無いかと聞いてきた。仕事中に何呑気なことを言っているのかと思ったが、聞いて見ると、お偉いさんがくるときには、よく時間合わせとかで、少し時間が余る時があるので、いろんな所の名所・旧跡は案内できるように見ておいた方が良いと言われた、へーそうなんだと感心した記憶がある。その後、後輩にも言った覚えがある。この平山さんとは、後に燃料の取引でもお世話になる。

だいぶ長くなったので、今日はこの辺でまた明日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリー
Uncategorized

ブログ十九日目、今朝は時間がないが何とか継続

今日は、朝から千葉で採用面接がある、6時30分には出かけるので、手早く済ませる。

さあ始めよう。

大宮の実習を終え、配属先の金沢へは当時、急行列車が一本あったので、それで向かった。同じ事務系潤滑油配属の先輩が駅まで迎えに来てくれた。その日は寮生たちでスキーに行っており、少し駅で待たされたので、不安だったのを覚えている。まあそれでもなんとか寮に着いた。

独身寮の名は「白山寮」一軒家に寮生は五人いて、寮母さんは通いで、料理を作ってくれていた。この家は、元の北國新聞の社長の家らしい。立派な家に部屋ごとに二人ずつ分かれて住んだ。

周りに知り合いもなく、寮生は本当に家族、兄弟のように、休みは一緒にどこにでも行った。

まだ、これから辛い二年半が始まるとは、夢にも思わなかった。

その話は、また明日にしよう。

それでは、朝風呂に行って来ます。

 

カテゴリー
Uncategorized

ブログ十八日目、今朝もめっちゃ早起き

最近、寝付きはいいが、目が覚めるのがめっちゃ早いので、ブログを書く時間がしっかり取れる。

それでは、昨日の続き。

支店実習は、大宮支店、今は関東第二支店になっているが、大宮にはもうないと思う。大宮支店では、同期の小石君と一緒に実習した。

事務所は建設会社の3階で天井が低く、下の階に響くので、ラジオ体操の録音はジャンプが飛ばされていた。

大宮支店の潤滑油課は結構な需要家を抱えており、カーメーカーやその周辺工場が多かったと思う。平日は先輩社員と需要家訪問に同行、夜は、アフターサービスの分析サンプル発送、販売計画資料準備等、当時はまだPCはまだそんなに普及していなくて、手書きの表で縦横計算を合わせていた。紙を何枚もノリでくっ付けて表を作った。計算も電卓で、算盤を使っている人もいた。夕方5時や6時の定時に帰る人はなく、社会人の洗礼を受けた気がした。

土日は、販売店さんと一緒に工場のオイル交換、所謂、フラッシング作業を経験した。圧延油交換で文字通り、人間ウエスになって、オイルタンク内を這いずり回ったこともあった。

よく食事に連れて行ってもらった。鴨の陶盤焼きで有名な「はすみ」にもよく連れて行ってもらい、後の埼玉アポロでもよく行った。

当時の独身寮は、上尾にあり、「武蔵野寮」と言った。先に配属された同期は2名、年齢の近い先輩も多く、後にいろんな場所で出会う事になる。ある日、寮の買い置きのビールを見てメーカーがサッポロとアサヒなので、なぜシェアNO1のキリンがないのか不思議に思い、寮長に聞いた事があった。ビール会社ではキリンだけが納入がないので、付き合いのあるサッポロ、アサヒを入れているとのことだった。個人の趣向にも会社の事情が関係してくるのかと思ったが、後に大事なこととわかってきた。

年末から年始のフラッシング作業と年始の販売計画のお手伝いが終わると、いよいよ配属先が決まる。

都会を期待していたが何と配属先は金沢支店、大学の時に一人旅を一度したことがあるが、大学の同期はみんな東京、大阪、名古屋なのに、みんなからお前何かしたのかと訝しがられた。

金沢配属の話はまた明日。

 

カテゴリー
Uncategorized

ブログ十七日目、今日も続く

昨日は、在宅勤務、今は、週二日在宅勤務で、月曜と金曜在宅なので、金曜から月曜までずっと家にいる感じ。

人と殆ど会わない、但しTeamsや携帯で話はすることはあるが、関係は希薄になる。

それでは、今日も続きに始めます。

名古屋のSS実習を終わると、東京に集合、今は無き渋谷の寮に泊まって、帝劇ビルの本社潤滑油部へ通った。

潤滑油部ってどんなところだろうと思いながら説明を聞いていた。同期は、技術系が5名、事務系が私を含め3名の計8名、事務系の配属は55年から始まったらしい。

この同期で、今会社に残っているのは、事務系の3人と技術系の二人だけ。あとは実習中に一人、本社で一人、配属後一人やめた。

本社集合の後は、千葉の営業研究所で研修、試験法や実験の実習を行った。研究所には高卒の若い同期の女性が数人いた。これを思い出し去年から当社でも高卒社員を採用開始した。

住まいは近くの富士見寮で、四人部屋だった。同室の上田君とは先日、会社の事務所で久しぶりに再会した。本社で大変な仕事を仰せつかったようだ。前に部長だった阿部君は7月から他部へ異動している。

実習中は、行くところもなくいつも一緒だった。よく麻雀もした。夏休みに熊本に帰り、そのついでに湯布院の阿部君の実家を訪ねてお世話になった。まだおじいちゃんは健在だった。お盆過ぎのラジオを聞いていると、坂本九さんが飛行機事故で亡くなったというニュースが流れていた。

営研実習の後に中央訓練所での潤滑油基礎研修に入った。販売担当者研修の人たちと一緒に潤滑油の基礎教育を潤滑油部の二年先輩から一ヶ月間にわたりみっちり受けた。当時、58年入社の技術系採用が二人しかいなくて、55年入社の先輩が二人いた。その内の一人、星野さんとはそれから販売関係でいろんなところで出会った。もう一人の高下さんは海外販売のパイオニアとして潤滑油部で活躍された。

まだこの頃は、頭も若くて暗記するのも得意で、毎朝前日の復習テストも毎回トップだった。結局、教育中の成績は一番で終了した。

潤滑油基礎教育の後に製油所実習に入った。潤滑油製造装置に、直に入って3交代勤務を経験した。

製油所実習中に東京で熊大同窓会があり、その日に姉ヶ崎まで帰れず、映画館で時間を潰し、朝一の電車で帰った記憶がある。製油所のお風呂に入りそのまま勤務に入った。

製油所実習の最後の発表で、現場で起こったモーターのトリップについて潤滑管理ができていないと批判めいたことを言ってしまった、お世話になった人たちに悪いことをしたと今でも思っている。

次は、支店実習だが、今日はこれくらいにしてまた明日。

では朝散歩に行ってきます。

 

 

カテゴリー
Uncategorized

ブログ十六日目

昨日は、横浜のSUPのスクールに行ってきました。やっと立つこともでき、形ができてきました。アキレス腱痛の間は、SUPで体を鍛えよう。

それでは、入社一年目、SS実習の続き。

独身寮は、名古屋市緑区の成海寮、小高い丘の上にあり、丁度、桶狭間を見下ろせる所にあった。

毎日、そこから四日市のSSへ通った。少しでも通勤時間を減らしたくて急行を使わせてもらった。

朝から晩まで給油作業で帰る頃には、疲れ果てていた。学生時代のバイトとはちょっと雰囲気が違っていた。

所長さんは、親分肌の人で、休日には家に呼んでもらったりした。当時、スタッフで優秀な人がいて、所長が目をかけていた。やがて正式な社員となり、結局、プロパー社員では初の部長となって、これも初の転勤も経験された。

後半のSS実習は、名古屋市内中心部、ここは客数が多くまた忙しかった。

会社に入って感じたのは、通勤時間の長さと勤務時間の長さだった。これからそのことを思い知ることになるが、それはまた明日、それでは、朝散歩に行ってきます。

カテゴリー
Uncategorized

ブログ十五日目、まだまだ続きます。

昨日は、いつも通り、サウナのあと、業務スーパーで買い物し、家に帰って飲み直し、前日飲み残しの白ワインボトル半分と新しい赤ワインボトル半分、合計でボトル一本分飲んで、いつの間にか記憶がなくなって、気がついたら11時。YouTubeを2本見て寝てから、さっき目覚めたが、胃が少しムカついている。

それでは、今日は、会社に入る前から始めよう。

卒業式が終わってもしばらくする事がなかったので、まだ熊本にいた。アパートを引っ越したのはギリギリだと思う。バイクや車を処分して、大したものはなかったけど、家具も処分して、布団は、新入社員の実習地(名古屋)に送った。熊本を離れたのは、3月30日だったと思う。そのまま東京に行ったかもしれない。実家に戻った記憶は定かではない。

会社からの連絡に、3月31日、代々木の青少年センター集合となっていた。配属先は潤滑油部、尚、実習地は名古屋という事だった。

代々木の青少年センターは、元のオリンピック村で二段ベットの四人部屋、57年前のオリンピック選手は大変だったと想像する。到着すると人事の担当から何人か床屋へ行って来いと言われる人がいた。結構うるさい会社だなと思った。

翌日の入社式は、何と明治神宮。社長以下、新入社員みんなでお参りした。参集殿でお偉いさんの講話と映画「日本人」を見た。長い映画だった。創業者の会社創業の物語を映画にする会社があるものだと驚いた。会食は当時の会長が一緒だったが、何を話したか覚えていない。

それから、千葉姉ヶ崎の中央訓練所へ移動し、で新入社員教育の始まった、何やら海軍式という事で、毎朝、ランニング、国旗掲揚から一日が始まる。教育の内容は、殆ど覚えていない。同じ班に同じく潤滑油部配属の阿部君が居て、後に潤滑油部長として再会することとなる。

班担当として先輩社員がついていたが、和久田さんと言って、あのNHKのアナウンサーの和久田さんのお父さんだ。結構、ウチの会社の社員の関係者に有名な人がいる。

集合研修が終わると、ガソリンスタンド実習が始まる。ガソリンスタンドはSS(サービスステーション)と言っていた。

名古屋の独身寮から、四日市のSS、後半は名古屋市内のSSで実習した。一緒にSS実習した八田君は、小倉高校の同級生で、前年の10月1日の拘束の会食で再会し、お互いびっくりした事を覚えている。小倉高校出身者は彼の他、二名いて一人は3年先輩、もう一人はクラスは違うが同期卒業だ。同じ高校出身が4人とは、不思議な会社だが、九州出身が多いのでそれも道理だ。同じ北九州市の東筑高校出身者も数人いた。

SS実習の詳しい話は、明日にして今日はこのくらいにして、朝散歩に行ってきます。

カテゴリー
Uncategorized

ブログ十四日目、いよいよ習慣化

ブログも二週間目に突入、いよいよ習慣化してきた感じ、ブログ書かないと気持ち悪くなってきた。

昨日は、アキレス腱の痛みの原因を探りに整形外科へ、コロナ禍でも病院は大量のじいちゃん、ばあちゃんで大盛況。

その割に診察にはすぐに呼ばれて、レントゲン撮影、足のアキレス腱の辺りの骨が白く光っており、骨がささくれているまたは繊維化しているらしく、そのため痛みがあるようだ。

炎症を抑える薬と湿布薬をもらい、しばらくはランニングはお休みです。今日から10km走ろうかと思っていたが、今日は、サイクリングでもします。また明日はSUPのスクールなので、これからこれにも力を入れていきます。

夕方には、歯科で抜歯を終えて、一度目の歯型をとり、来週二度目の歯型を取ったらいよいよインプラントに歯が入る予定です。

帰りに、ルフロン下のライフでビールをセルフレジで買って帰りました。今晩は、ビール一本と白ワインボトル半分飲む予定です。

夕食、入浴後、いつも見ている懲役チャンネルで「凶悪」という実話を元にした映画の話を紹介していたので、お酒を飲みながらNetflixで見ました。主演の犯罪者を演じたピエール瀧がよく似合っていた、記者役の山田孝雄の演技も素晴らしく、犯罪者の黒幕っぽいリリーフランキーも感じが出ていました。彼は私と同郷で世代も一緒で親しみ深く、「東京タワー」という小説で有名になったが、元はイラストレーターなのに俳優としても、エンタメ番組の司会でも才能を発揮していて本当に羨ましい、才能を持っているなと思う。

そのため、寝たのはいつもより遅い10時頃、起きたら4時を回っていました。

今日は土曜日、天気はあまり良くないようですが、ちょっとお散歩のあと入浴、お風呂の蓋、洗面器等をつけ洗い、午前中に多摩川をサイクリングして、昼はサウナと昼飲みの予定です。

次は、会社入社後、社会人一年目からの予定ですが、今日はこれ位にして明日から始めます。

では、ちょっと散歩に行ってきます。