今朝もアキレス腱が痛いのでジョギングはお休み
さあ、自分の人生の振り返りだ!
私は、昭和38年2月19日生まれ(今年58歳)
まずは父親のお話
父の職業は、国鉄職員、昭和4年生まれ、戦前に高等小学校を卒業、国鉄の職員養成学校に入学(入社)以降定年まで勤め上げた。勤続40年表彰の額が実家に飾ってある。お酒が好きで、毎日飲んでいた。アルコール中毒おまけに酒乱ときている。いわゆる酒をのむと人が変わる。飲まないといい人なんだけどと言われるタイプ。なんでそうなったかは、わからない。戦中、戦後何があったのかは、聞いたことがないが、あまり良いことはなかったのだろう。海軍の志願兵として従軍しているが、実戦経験は無いようだ。駆逐艦の通信士をしていたようだ。無事終戦を迎えられたため、今自分がいる。祖父は佐賀出身で小倉に出てきて国鉄に勤務していたらしい、それで父も国鉄に就職したらしい。父は昔の日本でそうだったように兄弟は多かったらしいが、年も離れていて、従兄弟たちは随分と年上だ。父は一緒に住んでいたようでにいちゃんと呼ばれていた。長兄は結婚後、子供ができていたが亡くなって、その奥さんは弟と再婚(当時は珍しくなかったようだ)したらしい。だからいとこ達の父は違うが母は同じで当然一緒に暮らしていた。父は末っ子だったが、すぐ上の姉、叔母さんしか生き残っていなかったのでその上の叔父さんは知らない。叔母さんは脳性小児麻痺を患い足が悪かった。しょっ中入院していた。よく見舞いに行ってはお小遣いをもらっていた。父の兄弟は二人だけのこり、叔母が死んで火葬してお骨を拾うときに、父が泣いていたのは印象的だった。父が死んでからは、父方の親戚とは付き合いがなくなり会うこともない。福岡に従兄弟が一人いて年賀状だけ交換している。また父の話に戻る。父は国鉄小倉工場の職工で肉体労働者らしく勤務終了後は毎日、会社帰りの酒屋で角打ち(酒屋の店頭飲み)していた。その酔っ払った顔を見るのが嫌だった。それでも借金して自分の家を建てたし、子供二人を一人前に育てたのは大したものだ。母の力が大きいと思うが。父はやはりこの大量飲酒が原因でか、C型肝炎、肝臓がん、肝硬変による肝不全で亡くなった。72歳だったと思う。若い頃、胃潰瘍で胃を切っているがそのときの輸血でC型肝炎になったのかもしれない。今考えても父とはあまり話をした記憶がない。あまり好きではなかったからかもしれない。なんとか死に目には会えたが、この時も通夜・葬儀でも不思議と悲しくなかった。自分は冷たい人間なのかと思う。一つ父が話していた話で覚えていることがある。「人は歳をとってくるともう人生、のこり少ないと感じる」今まさに自分の人生も折り返し点を過ぎ、週末に向かい残りの人生の年数を数えることになった。自分もその時の父の心境になってきたという事。
だいぶ疲れてきたので、父のことはこれ位にしてお風呂に入ってきます。