昨日は、中秋の名月、久し振りにお月様を見た。
昨日は、当社のパワハラ告発を受けた当人のヒアリング、被害者と目される人物からの発言告発について肝心の部分について、「記憶にない」との回答。ロッキード事件じゃないぞ、お前は政治家か?という回答に、弁護士と相談したら、ハッキリとした発言でなければ曖昧な答えより、「覚えていない」と答えた方が良いと言われたとのこと。弁護士に知恵を付けられているとはいえ、「言ってはいない」と言えばいい所を「記憶にない」とは何か隠しているんではと思うのは当然で、心象が悪くなるとは思はないのか。
今日も、二人の参考人とのヒアリングをするが、二人とも火の気が飛ばないように知らぬ存ぜねの対応になるんじゃないだろうか。やっぱりこの会社は自分の会社を良くしようという自浄作用が弱いように思う。
それでは、昨日の続きを、
時は、平成に代わり、二年がたった平成三年、いよいよ本社販売部へ転勤となる。東京支店時代には、販売部とは色々と付き合いができたが、いよいよその只中に入ることとなった。本社へは同期の中川くんと一緒に異動し、販売三課へ配属された、同期の酒井くんは販売企画課へ配属され、今の社長の木藤さんや副社長の丹生谷さんと一緒で、今や我が社の経理・財務部門を支えるCOOだ。
販売三課は直売需要家担当で、主にC重油という一番値段の安い燃料を販売していた。高度成長期は日本の産業を支える燃料で、花形油種だったが、今は揮発油や中間留分にその地位を奪われた。まだ、電力会社への納入が残っていてステータスはあった。
私は、窯業、非鉄、食品、造機の需要家とC重油の油担をしていた。その後、先輩の異動に伴い、あのジェット燃料談合事件で有名になった防衛庁(今は防衛省)を担当した。
仕事と言えば、毎月、「月刊出光」を持って需要家を回り、時々、石油情勢を説明したりして情報交換すること。見方によっては、文字通り「油を売って」いた。同和鉱業の資材部長さんとは、いつもゴルフの話ばかりしていた。四半期毎に指標価格である「C重油のフォーミュラ価格」や「鉄鋼価格」が決まるので、それを元に価格交渉をして居た。この時が仕事らしい仕事だった。あとは年末年始の挨拶、年始の挨拶には社長が伺うので結構準備が大変だった。年末には需要家との忘年会もあり、結構贅沢にいい物も食べさせてもらった。本社での五年間が一番仕事をしていて面白かった。
30歳になり、そろそろ結婚しようかと思い始めた。その話はまた明日。