昨日は、珍しく20時過ぎ迄仕事した、我が社の供給本部の方向性について議論していたら、いつの間にか20時を超えていた。いつもは、おねむの時間で最後は頭が働いていなかった。
それでは、早速昨日の続き、
長男は長女と対照的で、あまりしゃべらず、自分の好き勝手に動き回り、どこかマイペースのところがあった。今もそれはあまり変わっていない。
長女の様にニコニコ笑っているのを見た記憶がない。従ってあまり興味が薄くなった。そのため長女の様にあまり可愛がった記憶がない。
身体も弱く、よく病気をした。一度、ロタウィルス感染で高槻病院に入院したことがあった。インフルエンザで高熱を出して救急車を呼んだこともあった。息子をずっと抱いていたのでお陰で翌日はこちらがインフルエンザに感染していた。
妻が長男を妊娠中に父が亡くなった。宝塚の柴田石油さんに行って部長さんと話している時に、家から電話があった。仕事中なので出ないでいると、今度は会社から電話が会った。流石に会社から急用かと出ると、田中課長からで、私の父が危篤と家から連絡があったので、すぐに帰る様にと指示が会った。販売店さんにはその旨伝え、すぐに帰社して、帰宅した。そのまま、喪服を持って、新幹線に乗り、小倉のがんセンターに直行した。父はもう死ぬ寸前で家族が全員集まるまで生かされているという状態だった。やがて東京で働いていた弟もやってきて、父はご臨終の時を迎えた。妻にはそれをすぐに伝えた。
もう時刻は真夜中を過ぎていた。葬儀屋さんは、母が互助会の会費を納めていた所へ連絡し、自分達と一緒にご遺体を曽根のセレモニーセンターへ運んでくれた。
父の遺体は布団に寝かせられ、私と弟はその隣で寝た。里見の叔母さんが来てくれて一緒に遺体を見てくれた。母は一度帰宅して身支度をして朝にまた戻ってきた。
翌日、葬儀屋さんと葬儀の様式、規模、費用について相談し、檀家であるお寺の住職さんに連絡してもらい、通夜、葬儀の相談をした。これらは初めての経験だったが何とかなるもんだ。
父の葬儀には、大阪から田中課長、宝塚石油の社長が来てくれた。宝塚石油さんには、ちょっと多めのご香典をいただいたので、気持ちだけいただきたいと思い、大阪に帰った後お礼まわりに伺ったついでにお返ししたら、のちに電話がかかってきて怒られた。黙ってもらっておいた方が良かったのか。
酒好きというか、アルコール依存症で、酒乱の気もある父で母には随分迷惑をかけた父だったが、72歳でこの世をたった。若い頃は、胃潰瘍で胃を切り、C型肝炎で二度の肝臓癌の手術、最後は肝硬変による肝不全で亡くなった。
自分も遺伝というか、お酒は好きだが、父の様にはなりたくない。お酒は本当に飲みたい時だけ飲む様にしている。
関西支店勤務も二年過ぎた頃、店内異動の内示があった。異動先は販売企画課だった。いよいよ苦難の三年が始まる。
この話は、また明日。