今日もアキレス腱痛が続いているのでジョギングはお休み
なんとか明日は、ウオーキング ができるようになればいいなと思っています。その後はサウナと昼飲みです。
それでは、今日の話題は、自分です。
私の幼少期は、もうあまり覚えていないのですが、白銀町の長屋暮らしから父の国鉄の官舎(原町)に幼稚園の頃に引っ越しました。ここで中学1年生まで過ごします。父の職場、市街地にも近く便利なところでした。幼稚園は近くのお寺がやっていた木町幼稚園、一年保育のように記憶しています。
小学校は、清水小学校、低学年では授業について行くのが辛かったと思います。成績はあまり良くなかったと思います。
中学校は、家のすぐ近くの篠崎中学校に入学、その後、父が小倉南区の横代に会社の斡旋で土地を買い家を建てることになりました。ここに今でも母が住んでいます。築44年になりますが、まだまだ住むには不自由はないようです。
篠崎中学の時は、成績もそんなに良くなくて20番くらいだったと思います。そのころは、工業高専に行ってそのまま就職してもいいなと思っており、大学に行くことはあまり考えていませんでした。
中学二年生の時に新設の横代中学(企救中学から分校)に転校しました。ここが何と今までの品の良い地域とはちょっと違い軽くカルチャーショックを受けました。
ただ、周りのレベルが下がると言うことは、相対的に自分の地位が上がり、成績はいきなり三番に上昇し二年間下がることはありませんでした。その代わり、上の二人は、追い抜くことはできませんでした。柄の悪い奴らからいじめられたりもしました。柄になく初めて部活(サッカー部)にも入りました。あまり良い記憶はなかったですが、いろいろなことを経験しました。
そんな感じで勉強はできた(できると勘違いしていた)ので高校は北九州市の名門小倉高校を受験しました。横代中学から受験したのは4名、成績では私の下が一名合格しています。
高校受験でも一つ、因縁があり、自分とその成績は下の男と勇んで合格発表を見に行ったのですが、なんと合格番号が無い。ショックは大きく何とも言えない気持ちで帰りました。母に報告し、学校に報告し、一年浪人して予備校に通おうと考えていました。翌日はゆっくり街で遊ぼうかと思っていると学校から連絡があり、小倉高校から合格したので、来て欲しいと連絡が会ったとのことでした。
小倉高校に訪問し当時の校長先生から、合格おめでとうと直接言われました。まあ考えてみれば、補欠入学ということでしょう。まずは名門高校に滑り込む事ができました。ここから三年間の暗い倉校生活が始まります。
だいぶ長くなったので、今朝はこれくらいにして、お風呂に行ってきます。